『豊臣兄弟!』秀吉亡き後、徳川家康が恐れた“最悪の事態” 〜京都を固めた家康のトライアングル防衛線【前編】

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『豊臣兄弟!』秀吉亡き後、徳川家康が恐れた“最悪の事態” 〜京都を固めた家康のトライアングル防衛線【前編】

これからお話しするのは、豊臣秀吉(演:池松壮亮)も秀長(演:仲野太賀)も亡くなった後のこと。いわば『豊臣兄弟!―その後』ともいうべきものです。

舞台は、京都とその東に隣接する近江、そして伊勢・伊賀。

登場人物は、徳川家康(演:松下洸平)、井伊直政・直孝父子、そして藤堂高虎(演:佳久創)の四人。

さてさて、どのようなお話になるのでしょうか。[前編][後編]の二回に分けて紹介します。

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徳川家康/孟齋芳虎画(Wikipedia)

家康が京都に築いたトライアングル防衛線

1598年(慶長3年)、一代の英傑・豊臣秀吉はその波乱の生涯に幕を閉じました。徳川家康は、そこから天下取りへの野望を顕わにします。

そして、1600年(慶長5年)、関ケ原の合戦で勝利を収めた家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍の宣下を受け、ここに約260年続く江戸幕府が誕生しました。

と、書くと「何だ、そんな当たり前のことを」とおっしゃる読者はたくさんいるかもしれません。

確かにそうですね。でもここでは、関ケ原の1年後に家康が京都に築城した二条城に触れたいのです。今は、「世界遺産元離宮・二条城」と称される同城は、二の丸御殿に代表されるような豪華絢爛で美しい城です。外国からの観光客にも大人気、何とここを訪れる人の6割がインバウンドであるともいわれます。

二条城/洛中洛外図(Wikipedia)

さて、話を戻しましょう。二条城を訪れた人の多くが、あることに気付くのではないでしょうか。それは、本当にこの城で戦いができるのかということ。もちろん、二条城は徳川幕府が本気で造った城ですから、虎口の配置や石垣の造りを見てもわかるように、十分な防御力を備えた近世城郭です。

だから、将軍が京都に滞在中に非常事態が発生し、一時的に難を逃れるために籠る城としてはいいかもしれません。

しかし、二条城は大坂城などと比べると、余りにも小規模で、しかも平城なので、何万という大軍勢を相手にした際の防御力に優れているとはいえず、どちらかといえば戦闘用の城郭というよりは、徳川家の政庁として役目を担っていたのです。

金戒光明寺山門(Wikipedia)

そこで家康は二条城だけでなく、京都東側に位置する金戒光明寺と知恩院という大寺院にも着目しました。これらの寺は高台にあり、広大な寺域を備えています。家康はその地形と構造を軍事的に活用できるよう整備し、事実上、城郭に準ずる拠点として機能させました。

つまり、二条城、金戒光明寺、知恩院で敵の京都侵入を防ぐトライアングル防御陣を構築したのです。

そして、この防御態勢こそが、家康が恐れていた「あること」に対する手段でした。

家康が最も恐れていた「あること」とは

江戸幕府は、将軍と大名(藩)という封建的主従関係のもと幕藩体制を構築しました。
この体制をもとに、大名は幕府により日本各地に配されることになります。

そのうえで、関ケ原の戦い前後から徳川に従った大名たち、すなわち外様大名は関東・京都・大坂などの要衝から離れた場所におかれました。

よく知られる外様大名としては、加賀藩の前田家、薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、米沢藩の上杉家、仙台藩の伊達家などがあります。

江戸時代の大名配置(世界の歴史マップ)

みんな戦国時代から武名を誇り、100万石を越える、あるいはそれに近い領地を所有していた名家です。彼らは、元々の領地やその一部を幕府から安堵されたのですが、本領はともかく飛び地(本領から離れた領地)でさえ戦略上の要衝に領地を与えられることはありませんでした。

その理由は明確です。江戸幕府がどんなに強固な幕藩体制で大名を縛ろうとも、やはり外様は外様でした。つまり幕府からすれば、外様大名は信用できない存在だった。だからこそ、要衝周辺には「絶対に裏切らない大名たち」を配置したのです。

家康は戦国乱世を生き抜いて、天下を取った人物です。織田信長や秀吉の下で、忍耐と苦渋の日々を過ごしてきました。しかし、それ以上に痛感したのは、政権を維持することの難しさであったでしょう。

織田信長(Wikipedia)

室町幕府の目に余る弱体化、そして三好長慶、織田信長、豊臣秀吉もまた、長期的な政権維持はできませんでした。だからこそ、家康は自分が生きている間に、幕府が長きにわたって存続できるためのあらゆる手段を行った。その代表例が、軍事面では大坂の陣による豊臣氏の壊滅、法令面では武家諸法度、禁中並公家諸法度であったのです。

そして、江戸に幕府を開いた家康にとって、やはり気になるのが朝廷のある京都でした。ここには、天皇がいる。いつ何時、幕府に反旗を翻した勢力が、天皇を奉じるために京都に攻め込むかわからない。そうなれば、幕府は朝敵となります。

後水尾天皇像/ 尾形光琳筆(Wikipedia)

これが、家康が恐れたことでした。だから、家康は二条城を御所の近くに置き、知恩院と金戒光明寺を要塞化したのです。この家康の恐れが、現実化したのが約260年後に起きた倒幕運動に事を発する、鳥羽伏見の戦いであり戊辰戦争でした。

しかし、幕府が260年続いた末に弱体化した幕末と比べると、秀吉亡き後は、誰も家康に逆らえない状況にありました。

それは、関ケ原の戦いを思い出せばわかることです。家康が「会津の上杉景勝を討つぞ!」と言えば、徳川の譜代だけでなく、福島正則など豊臣一族ともいうべき大名たちのほとんどが「内府がおっしゃるなら間違いない」と、率先して従います。つまり、家康が「カラスは白いといえば、黒いカラスも白くなる」というわけです。

藤堂高虎(Wikipedia)

家康の凄いところは盤石の立場にありながら、恐ろしいほど用意周到なことです。京都を固めたうえで、それでもなお満足せず、江戸幕府を守る第二段の軍事配置を進めていきます。

その鍵を握るのが、井伊直政・直勝父子、そして藤堂高虎なのです。そのことについては、[後編]で詳しくお話ししましょう。

※参考文献
本郷和人著 『戦国史のミカタ』 祥伝社

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