朝ドラ『風、薫る』孤児を救い異国で命に寄り添った女性…工藤トメのモデルとされる広瀬梅の生涯

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朝ドラ『風、薫る』孤児を救い異国で命に寄り添った女性…工藤トメのモデルとされる広瀬梅の生涯

朝ドラ「風、薫る」劇中で、梅岡看護婦養成所でりんや直美らと共に看護を学び、帝都医大病院に移り看護婦見習いとして働く工藤トメ(原嶋凛)。

彼女の実在モデル、または人物像の重要なモチーフの一人として重なるのが、明治時代のトレインドナース、広瀬梅(ひろせ・うめ)という人物です。

劇中でトメは、青森の豪農の娘として描かれています。実際の広瀬梅は、岡山県に生まれ、父は士族(旧武士)であったとされています。

若い頃から「世の中を良くするために尽くしたい」という思いを抱き、裁縫だけにとどまらず、学問と社会に役立つ道を求めた女性でした。やがて上京し、桜井女学校で聖書に出会い、看護婦養成所へ進みます。

しかし明治の日本では、看護という仕事はまだ社会的に十分な理解を得ていませんでした。

広瀬梅は持ち前の行動力、信仰心、そして人を助けようとする強い意志を活かして活躍しました。しかし、ようやく自分の道を歩み始めたと思った時、広瀬梅にまさかの出来事が訪れます。

広瀬梅の生涯について見ていきましょう。

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劇中の工藤トメ(「風、薫る」公式サイトより)

※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。

津山藩士の娘として生まれ、教師を目指すが…

慶応4=明治元(1868)年、広瀬梅は岡山県で生を受けました。父は津山藩士であったとされています。梅が生まれた年は、戊辰戦争真っ只中の時代で、新時代明治へと移ろい始めた時期でした。

女子教育といえば、江戸時代の儒学教育でいう「夫唱婦随」から、欧米式の「良妻賢母」を目指すものへと変化しつつありました。そのため、当初が梅が通ったのは裁縫学校だったと伝わります。これに梅は納得せず、溢れる向学心を満たすために行動に出ました。

やがて梅は岡山の師範学校女子部に入学。教師として子供たちに携わる道を模索し始めます。しかし両親の理解は十分ではなく、何度も家に呼び戻されそうになりました。そのため梅は家出同然で東京に行くことを決意します。

上京後、梅は女子師範学科への入学を目指します。しかし東京に伝手がない梅にとって、金銭的に苦しい生活が待ち受けていました。苦学する梅は、牛込教会に通うようになります。そこで出会ったのが矢嶋揖子という桜井女学校の校長でした。

ここでの出会いによって、梅は桜井女学校に入学することになります。

生活する場所は寄宿舎であり、寄宿生の仲間には、峯尾えい三谷民子らがいたとされています。

ここで聖書に出会い、やがて牛込教会で受洗してキリスト教徒となりました。

この経験は、梅の人生を大きく変えました。単に学問を身につけるだけでなく、人を支える仕事に自らの生き方を重ねていくようになったのです。

明治20(1887)年、桜井女学校付属看護婦養成所が本格的に始まります。

当時の日本には、医師を育てる機関はあっても、近代的な看護を専門的に教える場はまだ十分ではありませんでした。桜井女学校付属看護婦養成所は、そうした時代に「トレインド・ナース」を育てる重要な場となりました。

※参考記事:

朝ドラ『風、薫る』梅岡女學校のモデル「看護婦養成所」とは?りんと直美が目指したトレインド・ナースを史実から考察

梅は同校に入学すると、固い決意を示すために断髪。当時は女性が髪を短くすること自体が珍しかった時代ですから、そこには強い覚悟があったのでしょう。

当時の日本において、看護婦はまだ尊敬される職業とは言いにくい面がありました。病人の世話は家族がするものという考えが強く、職業としての看護には偏見もありました。その中で梅たちは、知識と技術を身につけ、病む人を支える新しい女性の働き方を模索していきます。

梅の生涯に大きな変化が訪れたのは、災害によってでした……。

桜井女学校附属看護婦養成所の第1期生。梅もその一員として実習に参加した。

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明治29(1896)年6月15日、明治三陸地震津波が発生。三陸沿岸を中心に、死者約2万2千人、流出・全半壊家屋1万戸以上という、わが国の津波災害史上最大級の被害を出しました。

梅は救援活動のために現地を来訪。そこで身寄りを失った乳児の一人に出会います。引き取り先が見つからなかったため、梅はその赤ん坊を桜井女学校の寄宿舎へ連れて帰りました。

赤ん坊は、旧約聖書の「ルツ記」にちなんで「ルツ子」と命名。夜に泣き出すと、梅は抱いて一晩中歩いたとも伝わります。

やがてルツ子は、麻布鳥居坂教会の会員であった夫妻の養子となりました。

この出来事は、梅の人柄をよく物語っています。制度や肩書きだけでなく、目の前の命を見捨てない。その姿勢こそ、梅が学んだ看護の精神だったといえます。

その後、梅は佐野佳三と結婚。程なくしてアメリカへ渡り、サンフランシスコを拠点としました。

梅は日本人家庭の出産を助けるべく、助産師としても活動。同時に夫・佳三ががつくった学校で日本の歴史や国語を教えました。

しかし当時のアメリカでは、排日運動が強まっています。

そうした中で、梅と佳三夫妻は在留邦人グループの中心的存在となったとされています。梅は看護師、助産師、教育者、そして移民社会を支える女性として、多面的な役割を担っていきました。

梅は夫との間に6人の子に恵まれます。平和な時代であれば、順風満帆であったはずです……。

しかし昭和16(1941)年、梅は佳三とともに帰国の途につく道を選びました。しかし帰国の船上で夫・佳三が亡くなります。

梅は非常に落胆し、いったん親類や友人のいるアメリカへ戻りました。

昭和18(1943)年、梅は日本へ帰国します。このとき75歳となっていました。

すでに太平洋戦争のさなかの帰国であり、若き日に海を渡り、異国で長く暮らした梅にとって、日本へ戻ることは、人生の大きな区切りでした。

帰国後、梅はかつて三陸津波の被災地から連れ帰ったルツ子と再会。これはのちの昭和28(1953)年の『東京朝日新聞』などが、60年ぶりの「親子」の邂逅として報じたとされています。梅、ルツ子、ルツ子の育ての母の3人が聖書に手を添えて再会を喜ぶ写真も掲載されたといいます。

その後、梅は世を去ったと思われますが、没年について詳細はわかっていません。

しかし梅の人生の輪郭は、はっきりしています。旧藩士の家に生まれ、家族の反対を押し切って学び、キリスト教と看護に出会い、災害救援、移民社会の支援、教育へと歩みを広げた一生…

広瀬梅の生涯は、明治の近代看護と海外移民社会を生き、目の前の命に静かに手を差し伸べた一人の女性の歩みだったと言えるでしょう。

明治三陸地震。大津波の被害で多数の犠牲者が出た。

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