朝ドラ『風、薫る』フユの夫・永田康介(じろう)への看護訪問は重要な伏線?日本初「看病婦」は戊辰戦争で誕生した

Japaaan

朝ドラ『風、薫る』フユの夫・永田康介(じろう)への看護訪問は重要な伏線?日本初「看病婦」は戊辰戦争で誕生した

NHK朝ドラ「風、薫る」。第9週目となる今週のテーマは『看病婦とアメ』

5月26日放送第42話、タイトルバックだけで話題になったのが「永田康介(声)じろう」です。ラストの「おい」という一言だけの出演で、「え?シソンヌのじろう?」「これから出演するの?」とSNSがざわついていました。

永田康介は、看病婦で手術時の器械出しのベテランで、感じの悪い永田フユ(猫背椿)の夫です。

ドラマ「風、薫る」に登場するキャラクターは、歴史上の実在の人物がそのまま登場することもあれば、実在の人物を複数合わせたような人物がいたり、実在の人物をモデルにしつつも大きくアレンジしたりなど、さまざま。

今週から、病院で働く『看“病”婦』にスポットライトを当て、その人物の背景を浮き彫りにしていくようですが、フューチャーされたのは、永田フユと新登場した怪我をして家で寝込んでいるフユの夫・永田康介(シソンヌ/じろう)でした。

フユのモデルで実在の看病婦・吉村セイにも、戊辰戦争で亡くなった軍人の夫がいました。実は、その戊辰戦争のとき日本初の「看“病“婦」が誕生したのはご存知でしょうか。

なぜ戊辰戦争で日本初の「看“病“婦」が誕生したのか、吉村セイや夫はどう関わったのかを、「看病婦なんて」と自虐するドラマの永田フユや康介のキャラクターと併せて考察してみました。

紳士的だったフユの夫(NHK「風、薫る」公式「X」より)

※朝ドラ「風、薫る」関連記事:

朝ドラ【風、薫る】フユは本当に嫌な先輩?実在モデル・吉村セイは若き看護婦を導き慕われた“人格者”だった

朝ドラ「風、薫る」後に“看護婦育成”を支えることに…黒川勝治(平埜生成)のモデル・瀬尾原始の生涯

フユの自宅へ看護訪問に訪れるりんと直美

手術時、永田フユの器械出しの手際のよさに感動したヒロインの一ノ瀬りん(見上愛)は、そのスキルを教えて欲しいと頭を下げますが、フユは代わりに金銭を要求します。

けれど、ただ意地悪なだけではなかったようです。

「お金がなくて仕方なく、恥を忍んでこの仕事(看病婦)をやっている」と苦しげな表情で告白。息子は奉公に出し、家には怪我で動けない夫がいるといいます。

フユは「恥を忍んで」などという表現が全く当てはまらない素晴らしい技術を持つ職業婦人

それなのに、本人に卑屈な思いをさせる明治時代の「看病婦」「看護婦」に対する差別や見下しに対し、改めて怒りを覚える場面でした(ドラマの中だけではなく現実でしたから)

態度はぞんざいながら、手術中の目配りや、以前病室で患者の丸山忠蔵(若林時英)が、“病院食が薄く塩を欲しがっていること”を覚えているなど、本当はしっかり周囲を観察している人だということが分かりました。

実は、フユも看護婦にとって一番大切な『observe=観察する』スキルを持っている人ではないでしょうか。

けれど、看病婦の仕事が終われば家事や夫の看病があり、疲弊しています。新人看護婦にスキルを教える余裕などなかったでしょう。

「そんなにトレインドナースとやらが素晴らしいなら、うちの人の看護でもして欲しいもんだわ」は、嫌がらせではなくフユの本音です。

「わかりました」と、大家直美(上坂樹里)は承諾しりんと共に、フユの自宅を訪問して夫の看護をすることにしました。

これ、将来の直美につながる伏線だと思います。

看病婦は低賃金で重労働。家でも家事や夫の看病を背負っているフユ。(NHK「風、薫る」公式サイトより)

知的で紳士的で面白かったフユの夫・永田康介

意外だったのが、フユの自宅。忙しいのに質素ながらも整然と片付いています。

夫の永田康介は、「横柄で乱暴な亭主関白」と想像していたのですが、意外や意外。りんや直美に対しても紳士的で言葉使いも丁寧な人でした。

康介が痛む箇所を告げたときに直美は即座に「腰骨の損傷」を指摘すると、「どうやら、君たちはただの看病婦とは違うようだ」といいます。看病婦とは違う「看護婦」についての知識も持ち合わせているのかもしれません。

そして「家内に看病婦なんかやらせて、お恥ずかしい限りです」と頭を下げます。「看病婦なんか」という表現にひっかかるりんと直美。

けれども、自虐的なことをいいつつも賤しかったり荒々しい感じはしません。知的で丁寧な喋り方や書籍好きなどから察すると、怪我をする前はそれなりの職業についていたのでしょうか。

「わたしなんかのために申し訳ない」「あなたがたに看護してもよくなるわけではありません」と語り、二人が提案する掃除やヘルプを断ります。

丁寧で淡々とした口調ゆえに、逆にとりつくしまがなさそうな康介。

何かお役に立てないかと困ったりんが「じゃあ、洗髪は?」と提案すると「いやぁ、それは………助かる。

直美が「じゃあ、お布団を干して枕も洗いましょう!」と提案すると「いやぁ、それは………助かる。

この3人のやりとり、間合いが素晴らしい。さすがは“凄腕コント師”と名高いじろうさん。(ちなみにじろうさん、俳優としても有名ですが、NHKの朝ドラは「まれ」「虎に翼」にも出演しています)

この康介のキャラから想像するに「看病婦なんか」というセリフも、フユ自身を見下しているのではなく、「世間で見下されている看病婦なんかをやらせて申し訳ない」「そんな自分も情けない」という気持ちからなのかもしれません。

康介は洗髪や布団干しをして欲しくても、朝早く出勤し帰ってきてからは家事もこなしている妻に、遠慮して頼めなかったのだと思います。

思い出されるのは、乳がん手術で入院していた和泉千佳子侯爵婦人(仲間由紀恵)がりんに自分の心に秘めていた恐怖や悲しみなどをさらけ出し「よかったわ、あなたが赤の他人で。あなたが看護婦で」と感謝を述べたときのこと。

家族だと遠慮して頼めないことも、仕事として接するプロなら胸の内を素直にいえるものです。こういう言葉を引き出すのも、患者の精神的なケアも行うトレインド・ナースの役目なのでしょう。

本当は、いろいろやって欲しいことがあった康介。(NHK「風、薫る」公式サイトより)

戊辰戦争で、日本初の「女性看病婦」が雇用される

永田フユのモデル「吉村セイ」は、帝国大学医科大学第一病院(現在の東大病院)が、横浜で軍陣病院として開かれた頃から20年に渡り働いてきた大ベテランで、引退を控えて熱心に後進の指導にあたったそうです。

セイは、「戊辰戦争で軍人だった夫を失い軍陣病院で看病婦として働くようになった」そうですが、なぜ看病婦という仕事を選んだのか理由は不明です。

そのセイの夫が命を落とした戊辰戦争で、日本初の「女性看病婦」が雇用されました。

『日本初の女性看病人誕生の背景』という資料によると、

〜現存する資料から、日本で最初に女性看病人が雇用されたのが慶応4年4月24日、戊辰戦争の壬生城内(現在の栃木県下都賀郡壬生町)であった。

この女性看病人に関する資料は弘田親厚著『慶応四戊辰会津征討日記 弐の巻』のみであり、どのような女性が雇用されたのかは不明である。〜

そうです。

また、続きを要約すると、

〜慶応4年(1868)1月3日、日本史上最大の内戦である戊辰戦争が始まり、土佐藩は出兵に際し600 名のうち病院組織として医師10名、衛生兵30名を出した。壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町)での土佐藩の兵員は230名程度で医師5名衛生兵0 名。

4月に「銃創看病人として此地の婦人九人雇入養生局に差置ける」(弘田親厚著『慶応四戊辰 会津征討日記 弐の巻』)〜

とあり、「傷病兵の看護のため女性を9人雇用した」と記録にあるそう。

このことは、当時の横浜大病院が女性看病婦を雇用したよりも約1ヶ月早いために日本初の「女性看病婦」の誕生とされているそうです。

(逆に、慶応4年4月に横浜軍陣病院が開設。英国軍医のウイルスが主任となり看護のため女性を雇い入れて傷病兵を看護したのが「日本初の職業としての看病婦」誕生とする説もあります)

戦いで多くの傷病兵が出たこと、医師や衛生兵の不足、戦いで男性が徴用されていたことなどが重なり、女性を募集することになったようです。このとき、報酬をもらって看病にあたった看病婦は、農民や町民の子女である可能性が高かったとか。

けれども、これは戊辰戦争における一時的なもので、未訓練で何も知識も学んでいない看病婦から看護婦の誕生に結びつくことはありませんでした。

『戊辰戦記絵巻(前篇)』における鳥羽・伏見の戦いの様相 wiki

セイは軍陣病院勤務でスキルを磨いたのか

ドラマの原案となっている伝記によると、慶応4年(1868)4月に横浜軍陣病院が開設したときにセイは看病婦になったようですが、「それから20年にわたり働いてきた」「60歳を超えて目前に引退を控えた頃に大関和(一ノ瀬りんのモデル)ら看護婦見習いたちと出会った」そう。

これは勝手な想像ですが、もしかしたらセイは、横浜軍陣病院に勤め始めた新人時代からいきなり重傷をおった兵の手術介助を求められたのかもしれません。

そのため、「周囲の状況を冷静に観察して先を見越して行動する」というオペ看に必須の能力を鍛えられたのかも。

ドラマでも、フユは脚に柵が刺さった患者の手術時、顔色ひとつ変えずにスムーズに器械出しをしていましたね。

大関和が看護婦見習いだった明治21年(1888)頃に、セイは引退間近の60歳頃でキャリア20年ということは、1868年の働き始めは40歳くらいだったのでしょうか。

その前にすでに夫と結婚していたのか、夫とは患者として出会いその後亡くなったのか、想像の域を超えることはできません。

いずれにしても、横浜軍陣病院が「日本初の看病婦」を雇用した病院で、もしかしたらその一人だった吉村セイが引退する際、「日本初の看護婦」大関和にスキルを伝授した……のかと想像すると、感慨深いですね。

右より二人目が大関和(1888年10月26日の卒業記念のものと推定)wiki

鈴木雅が設立した「派出看護婦会」への布石か

大家直美のモデル、鈴木雅を語る上で欠かせないのが『派出看護婦会』の創設です。

明治24年(1891)東大病院で内科看病婦取締を務めていた鈴木雅が病院を退職し、始めたのが「慈善看護婦会」です。(『国史大辞典』によると、これが日本最初の派出看護婦会だそう)

派出看護婦とは、患者の家庭に出向いて看護にあたる看護婦のことで、現在の在宅看護に通じる仕組みですがこの当時はかなり画期的でした。

雅は「看護婦という職業の存在を広く知ってもらうため」貧困層の人々には無料で看護婦を派遣。明治29年(1896)には、大関和が派出看護婦会の会長となりました。

今回、直美が躊躇なくフユの夫・康介の訪問看護を引き受けた場面、トレインドナースの制服のままりんと看護に出向いた場面は、この将来の布石なのかもしれませんね。

のちに自宅で看護を行う『派出看護婦会』を創設する直美のモデル鈴木雅。(NHK「風、薫る」公式サイトより)

りんと直美が家を訪問したときは襖を閉め切っていた康介。彼女たちが帰ったあとは、襖を開けて陽光と風を部屋に入れています。「看護」という仕事が患者に与えてくれる気持ちのよさをしみじみ実感したのではないでしょうか。この訪問看護が「どうせ看病婦なんか」と閉ざしていた心の窓を開くことに繋がればいいのですが。

看病婦も看護婦も、お互いに気持ちよく知識やキャリアの交換ができるときが早くきますように。

※朝ドラ「風、薫る」関連記事:

朝ドラ【風、薫る】フユは本当に嫌な先輩?実在モデル・吉村セイは若き看護婦を導き慕われた“人格者”だった

朝ドラ「風、薫る」後に“看護婦育成”を支えることに…黒川勝治(平埜生成)のモデル・瀬尾原始の生涯

参考:

日本医史学会総会「日本初の女性看病人誕生の背景(戊辰戦争時壬生の看病人)」
『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中公文庫)田中ひかる著

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「朝ドラ『風、薫る』フユの夫・永田康介(じろう)への看護訪問は重要な伏線?日本初「看病婦」は戊辰戦争で誕生した」のページです。デイリーニュースオンラインは、看病婦風、薫る戊辰戦争じろう看護カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る