『豊臣兄弟!』近づく半兵衛(菅田将暉)の最期、黒田官兵衛(倉悠貴)との熱い絆…天才軍師「両兵衛」を比較

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『豊臣兄弟!』近づく半兵衛(菅田将暉)の最期、黒田官兵衛(倉悠貴)との熱い絆…天才軍師「両兵衛」を比較

NHK大河「豊臣兄弟!』第21話「風雲!竹田城」で初登場したのが、播磨姫路城代・小寺官兵衛尉孝高(倉悠貴)。のちの黒田官兵衛尉孝高です。

豊臣秀吉の天下統一には、竹中半兵衛(菅田将暉)と共に欠かせない“両兵衛”。二人とも「好きな戦国時代の軍師ランキング」には必ず入るほど人気があります。

秀吉のセクセスストーリーには不可欠な人物のため、歴代の大河ドラマにも登場。演じる俳優さん・描かれ方などによって「◯◯さんの半兵衛がいい」「◯◯さんの官兵衛がピッタリ」など、ファンの間でも意見が分かれているようです。

「豊臣兄弟!」では、菅田・半兵衛は「戦略オタクで一歩引き気味ながらも豊臣兄弟と仲が近付き実は嬉しい」……そんなキャラが出来上がっています。倉・官兵衛はどのように描かれていくのでしょう。

今回は、史実を元に、両者の戦術・交渉術・個性や能力・人間力などを比較してみました。

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左:竹中半兵衛 右:黒田官兵衛

竹中半兵衛と黒田官兵衛、どんな人物? ▪️美しく儚げな軍師・竹中半兵衛

竹中重治(通称:半兵衛)は、天文13年(1544)美濃国主・斎藤道三の家臣で大御堂城主・竹中重元の嫡男として誕生しました。

初陣は、道三が戦死した長良川の戦い。その後は斎藤義龍・龍興に仕えました。けれども、無能で人望もない龍興に対し半兵衛はクーデターを起こします。その後、信長に命じられて木下藤吉郎(のちの秀吉)は半兵衛を熱烈勧誘。そうして、秀吉の軍師となり活躍し数多くの戦功をあげます。けれど、1579年、半兵衛は播磨三木城の城攻め中に病に倒れ、36歳でこの世を去りました。

半兵衛を表す代名詞として有名なのは「女性のように美しい」「病弱で儚げな天才」……実は、豪傑で剣術は免許皆伝の腕前だったと伝わります。

軍師としては「敵を制すること神の如し」といわれ、三国志の諸葛孔明に例えられ『今孔明』とも呼ばれていました。

「豊臣兄弟!」で演じているのは菅田将暉さん。初登場当初は「美しい」「横顔がきれい」という称賛の声があがっていました。けれども、徐々に時折見せる“様子がおかしい” “表情が変” “絵地図に動物の絵描いてる!”など面白さが歓迎されるように。

すっかりゆるキャラみたいになり、今は一挙手一投足が注目されています。

涼やかで美しい菅田・半兵衛(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より

▪️切れ者の軍師・黒田官兵衛

黒田孝高(通称:官兵衛)は、天文15年(1546年)播磨国人領主・小寺家に使える武将、黒田職隆の嫡男として誕生。永禄10年(1567)22歳で黒田家の家督を継ぎました。

1570年代、織田と毛利が勢力を拡大し始めた頃、官兵衛がいた播磨国は地理的に両家に挟まれます。官兵衛は、“守りの毛利”より、“攻めの織田”につくのが得策と判断し、重臣たちを説得。小寺家は信長に臣従し家臣・秀吉に仕えることになりました。

黒田官兵衛は、軍師としてさまざまな戦略を押し出し「稀代の知将」「戦国一の切れ者」と恐れられるようになったのです。

そんな官兵衛は、天正13年(1583)頃、気心の知れたキリシタン武将、小西行長・高山右近・蒲生氏郷に勧められる形で洗礼を受け「シメオン」の名を与えられました。官兵衛は慶長9年(1604)3月20日、京都伏見藩邸にて死去。享年59でした。

「豊臣兄弟!」で演じるのは倉悠貴さん。NHKの朝ドラ「おちょやん」「あんぱん」ほかいろいろなドラマや映画で活躍する俳優さんですが、大河は初めて。どんな切れ者ぶりを発揮するのか楽しみですね。

倉悠貴さん演じる黒田官兵衛(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より

竹中半兵衛と黒田官兵衛、戦略や交渉術エピソード

二人の戦略や交渉術がうかがい知れるエピソードをご紹介しましょう。

▪️竹中半兵衛の戦術と交渉術

竹中半兵衛は、冷静な観察力で敵の戦略を見破るのを得意としていました。

・永禄13年(1570)「姉川の戦い」
織田軍と浅井・浅倉軍の「姉川の戦い」の際、数千もの浅井軍が横山城(現在の滋賀県長浜市)から出ていくのを、半兵衛は“織田軍を引きつける戦略”と見抜き、守りを固めることを主張。織田軍は兵を減らすことなく、横山城を包囲して浅井・浅倉軍との戦いの火蓋が切られたのでした。

・天正元年(1573)「小谷城の戦い」
その後も続いた織田軍と浅井・浅倉軍の戦い。半兵衛は、信長への反感が強いのは長政の父・久政で、長政はやむおえず追従しているという情報を得ます。そこで、浅井の居城・小谷城の、“長政のいる本丸”と“久政のいる小丸”の間にある京極丸を占拠し、親子の連絡網を断ちます。

小谷城は落城し久政・長政親子は自害。長政の妻・お市の方と3人の娘たちの救出に成功しました。

・天正3年(1575)「長篠の戦い」
織田と武田勝頼の戦いで、織田軍は鉄砲を使った画期的な作戦を展開しました。武田軍が兵を動かしたのをみて織田軍や秀吉は、横からの攻撃に備えて自軍を動かそうとするも、半兵衛は動かず。混乱させるための“武田軍の作戦”だと見抜いていたのでした。これによって秀吉は救われました。

「太平記英勇伝 建中官兵衛重治」歌川国芳 public domain

▪️黒田官兵衛の戦術と交渉術

黒田官兵衛は、「城攻め」を得意としました。

・天正6年(1578)〜「三木合戦」
秀吉に仕えていた黒田官兵衛は、「三木城」(現在の兵庫県三木市)に籠城する別所長治に武力で対抗するのは難しいと考え、食糧補給手段を絶たせる「兵糧攻め」を秀吉に提案。攻略に成功します。

・天正9(15801年)「鳥取城の渇え殺し」
毛利軍との戦いでは、鳥取城を攻める1年前に商人たちを派遣して、収穫されたばかりの米を通常の倍の値段で買い取る作戦を実行。農民たちは、鳥取城に納めるはずの米や備蓄米まで売り払ってしまいます。

これが、非情なまでの兵糧攻め「鳥取城の渇え殺し」となりました。一説では人肉を喰らうものが出るほどの凄惨な状況となり、4ヶ月ほどで鳥取城は明け渡されたのでした。

・天正10年(1582年)「水攻め」
備中高松城(現在の岡山県)攻略の際には、地形を見て「水攻め」が適切だと判断した官兵衛は秀吉に進言。金銭や米と引き換えに、築城を得意にする建築者や周辺の農民を雇い、城近くを流れる足守川に堤防を築きます。降り続いた雨の助けもあり川は増水。水は城の周りに引き入れられ、備中高松城は湖に浮かぶ孤島と化したのでした。

毛利軍が駆け付けるも救援できる状況ではなく、城内の兵糧も尽き兵士達の疲労も極限状態。降伏を待つばかりの状況へと追い込んだのでした。

秀吉(右)と黒田官兵衛(左)。歌川 豊宣public domain

竹中半兵衛と黒田官兵衛、人間性は ▪️半兵衛の人間力エピソード

天正6年(1578)、中国攻めのときのこと。毛利側に寝返った信長の家臣・荒木村重を説得するため、黒田官兵衛は、単身、村重の居城・有岡城(兵庫県伊丹市)に乗り込みます。

けれども、捉えられて幽閉されてしまいました。戻らない官兵衛に裏切ったかと怒った信長は、人質だった官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すように秀吉に命じます。

それに反対したのが竹中半兵衛でした。「松寿丸を殺せば官兵衛は深く恨み、完全に信長の敵となる」と説得するも信長は殺すように指示を出します。そこで、半兵衛は、松寿丸を美濃の自分の屋敷に匿いました。1年後にようやく官兵衛は有岡城から救出され、晴れて無実が証明されます。

官兵衛は、半兵衛がリスクを顧みずに自分のことを「裏切るわけはない」と信じ、息子を助けてくれたことに深く感謝したのでした。けれど、半兵衛はすでに亡くなっていたので感謝の気持ちを直接伝えられず、大号泣したそうです。

この前から、病に伏せがちだったという竹中半兵衛。もしかしたら、自身の命が長くないことを悟り、信長にばれる頃はもうこの世にいないと賭けに出たのかもしれません。命を救われた松寿丸子こと黒田長政は、半兵衛に敬意を払い、竹中家の黒餅を家紋としたのでした。

天正6年(1578年)、半兵衛がその生涯を終えたとき、秀吉は半兵衛の亡骸にすがりつき泣き崩れたそうです。

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岐阜県竹中重時氏旧蔵 wiki

▪️官兵衛の人間力エピソード

「説得によって敵を味方に寝返らせる」調略の名人で、知謀に秀でた策士として描かれることが多い黒田官兵衛。けれど、官兵衛は真っすぐな誠実さを持ち、温かな人間味にあふれる面倒見のよい人柄だったようです。

家臣を大切に育てることに若い頃から腐心し、育て上げた優秀な家臣たちとは家族のように深い絆で結ばれていたことでも知られています。

「知謀をもって敵城を降参せしめ和議を調え、人を殺さずして勝事を好みたまう」を旨とし、降参した敵の家臣も極力生かすように努め、望む者は自らの家臣として迎え入れることも多かったそうです。

裏切り・だまし討ちが日常茶飯事の戦国時代。「官兵衛ならば約束を反故にしない」と敵将も官兵衛の言葉に耳を傾けました。

秀吉は「自分が死んだら、官兵衛が天下を取るであろう」とその実力を高く評価していたものの、官兵衛のあまりの切れ者振りに恐れを抱くようになっていったとか。

「人として愛されたのは無欲の官兵衛」「知略と頭脳を信頼されたのは官兵衛」……そんな見方が近年の傾向だそうです。

「如水居士像」。黒田孝高 wiki

二人に共通したのは「愛妻家」!? 半兵衛の妻

半兵衛は、斉藤家から織田信長に仕えた西美濃三人衆の一人・安藤守就の次女・得月院を正室に迎え、2人の間には1573年に嫡男・重門が産まれています。半兵衛はこの得月院以外には側室を置かなかったそうです。非常に夫婦仲がよかったのか、病弱で無欲だった半兵衛はほかに側室を持って子孫を増やすことは関心がなかったのか。本当のところは不明です。

官兵衛の妻

黒田完兵衛の妻、光姫(てるひめ/みつひめ)は、守護大名の赤松家に仕える重臣・櫛橋家の娘です。夫は幽閉されたために行方不明、息子・松寿丸は殺されたかもしれない状況下で、不安なままひとりの時間を過ごすことが多かった光姫。黒田完兵衛はそんな光姫を大切にして、生涯側室を持たなかったそうです。

櫛橋光(櫛橋照)(くしはしてる)(黒田孝高の正室)wiki

最後に

何れ劣らぬ、才能溢れる軍師だった竹中半兵衛と黒田官兵衛。それぞれ、異なる個性の持ち主ですが、両方とも秀吉が天下人となっていくには欠かせない存在でした。「豊臣兄弟!」では、二人はこれからどのように描かれていくのでしょうか。

第14回『絶体絶命!』の撤退戦で豊臣兄弟が「逃げまくれ〜!」となったとき、半兵衛が咳き込むシーンがあり、SNSでは「半兵衛が咳をしている!」と大反響を呼びました。

黒田官兵衛の登場とともに、そろそろ、竹中半兵衛とお別れするときが静かに近づいてきたのかもしれません。

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