朝ドラ「風、薫る」実はりんのモデルを看護の道へ導いた牧師…吉江善作(原田泰造)のモデル・植村正久の生涯
朝ドラ「風、薫る」には魅力的な人物が数多く登場します。吉江善作もその1人です。
原田泰造さんが演じる吉江は、親に捨てられ、教会を転々としてきた大家直美を引き取り、彼女をそっと見守るキリスト教の牧師として描かれています。
この吉江善作の人物像を考えるうえで、重ねて見られる実在人物がいました。明治・大正期の牧師、植村正久(うえむら・まさひさ)です。
植村正久は、幕臣の家に生まれながら、明治維新によって大きく運命を変えられます。
若い頃から英語を学び、横浜で宣教師たちと出会い、やがてキリスト教の道へ進んでいきます。
しかし、その歩みは決して順風満帆ではありませんでした。徳川の時代が終わり、旧幕臣の家は急速に立場を失います。
正久は、新しい時代の中で、武士の子としての誇りを抱えながら、信仰と教育、そして言論の道を切り開いていきました。
植村正久の生涯について見ていきましょう。
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旗本の家に生まれた少年、キリスト教と出会う安政4(1857)年12月1日、植村正久は1500石の旗本・植村祷十郎の子として江戸の芝露月町で生を受けました。一説生まれたのは千葉とも伝わります。
旗本は将軍家にお目見えを許された身分です。幕臣の中でも、御目見を許されない御家人よりも上位であり、特に大身旗本の植村家の正久は、将来的に徳川将軍を補佐する役職に就く可能性もありました。
しかし、時代は風雲急を告げる幕末です。時代は大きく動き始めめていました。
慶応3(1867)年10月、将軍・徳川慶喜は朝廷に政権を返上(大政奉還)。翌慶応4(1868)年1月には鳥羽伏見の戦いが起こり、徳川の時代は終焉を迎えました。
同年4月、江戸城は無血開城。植村家は没落し、正久は両親と共に横浜へ移り住むようになります。
当時の横浜は、外国との交易によって賑わいを見せる土地でした。
外国人居留地が置かれ、西洋の言葉、思想、宗教が次々と流れ込んでくる土地となっていたのです。
正久は、明治4(1871)年以降、横浜で英語を学習。S・R・ブラウンの塾などで学び、その中でキリスト教と出会います。
明治6(1873)年、正久は受洗。正式にキリスト教徒となりました。
当時の日本では、キリスト教はまだ新しい宗教です。禁教の時代の記憶も残っており、キリスト教徒になることは、決して軽い選択ではありませんでした。
武士の子として育った正久が、西洋由来のキリスト教を受け入れたことは、単なる改宗ではありません。
古い身分秩序が崩れた時代に、自分の生きる軸を新たに見つける行為でもあったのではないでしょうか。
明治11(1878)年、正久は東京一致神学校を卒業。日本基督一致教会の伝道者となりました。
明治13(1880)年には、東京の下谷教会の牧師となります。
若い牧師でありながら、彼は日本のキリスト教をどのように根づかせるかという大きな課題に向き合っていました。
当時の日本のキリスト教は、外国人宣教師の影響が大きいものでした。正久はそこから一歩進み、日本人自身の手で教会を育て、神学を学び、伝道者を養成する必要を強く感じていたようです。
やがて正久は、朝ドラ「風、薫る」の主人公たちのモデルとされる女性たちとも関わります。
明治14(1881)年、那須から上京していた大関和(おおぜき・ちか)という女性が、正久の弟・植村正度の英語塾に通い始め、やがて正久が運営する下谷一致教会に通うようになりました。
当時の大関和は、離婚したばかりです。その原因は元夫が妾との関係清算を拒んだことにありました。
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明治19(1886)年、正久は大関和に看護婦養成所への入学を勧めます。
当時、看護婦という職業は、現在のように尊敬される専門職ではありませんでした。むしろ低く見られることも多かったのです。大関和も最初は強く戸惑いました。
しかし正久は、病人を真心で看護することは、神の前に正しい行いであると説きました。大関和はその言葉を受け止め、明治20(1887)年1月に桜井女学校付属看護婦養成所へ入学し、同年3月に正久から洗礼を受けたとされています。
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朝ドラ『風、薫る』梅岡女學校のモデル「看護婦養成所」とは?りんと直美が目指したトレインド・ナースを史実から考察明治20(1887)年には、番町一致教会を設立。これはのちの富士見町教会へとつながります。
正久は単に礼拝を行うだけの牧師ではありませんでした。教会を拠点に、信仰、教育、言論、社会への発言を広げていきます。
明治という時代は、近代国家が急速に形づくられていく時代でした。その一方で、人々は新しい価値観と古い道徳の間で揺れていました。
正久は、その揺れの中で、キリスト教を単なる外国宗教としてではなく、日本人が自分の言葉で受け止めるべき信仰として語ろうとしたのです。
ここに、正久の大きな役割が見えてきます。
彼は、女性たちに単に信仰を説いただけではありません。新しい時代の中で、女性が専門職として生きる道を後押しした人物でもありました。
神学と教育に力を注ぐ正久は、牧師としてだけでなく、神学者、教育者、評論家としても活動していきます。
明治17(1884)年には『真理一斑』を刊行。同書は「日本人による最初のキリスト教神学書といいうる」と言われました。
明治37(1904)年には、東京神学社を創設。これは現在の東京神学大学につながる神学校の一つです。
正久が目指したのは、外国人宣教師に頼りきる教会ではありません。
日本人の牧師を育て、日本人自身の言葉で信仰を語り、日本の社会に根ざした教会をつくることでした。
これは、明治日本におけるキリスト教の自立を目指す歩みでもありました。
明治13(1880)年に小崎弘道らと『六合雑誌』を創刊。明治23(1890)年には独力で『福音新報』を創刊しています。
正久は『日本評論』や『福音週報』などを通して、キリスト教界だけでなく、政治、社会、教育、文学についても発言しています。
当時の日本において、宗教者が社会や文学について語ることは、大きな意味を持ちました。
正久の言葉は、教会の中だけに閉じたものではありません。近代日本がどのような精神を持つべきかを問う言葉でもありました。
しかし、正久の人生は穏やかな信仰生活だけではありませんでした。
明治34(1901)年からは、海老名弾正とのキリスト論論争が勃発するなど波乱も見せています。
大正14(1925)年1月8日、正久は世を去りました。享年66。
幕臣の子として生まれ、宗教者として生き、新しい時代の扉を開くために奔走した生涯でした。
大関和のように、信仰を通じて新しい職業へ踏み出した女性たちの背後にも、正久の言葉と導きがあります。
武士の時代から近代日本へと向かう激流の中で、信仰と言葉によって人々を導こうとした歩みでもありした。
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