朝ドラ「風、薫る」侍医から医学界の重鎮へ…内科助教授・坂田幸作のモデル・入沢達吉の生涯
朝ドラ「風、薫る」には魅力的な人物が数多く登場します。帝都医大病院内科の助教授として登場する坂田幸作もその1人です。モデルに近い人物として考えられるのが、明治から大正にかけて活躍した内科学者・入沢達吉(いりさわ・たつきち)です。
入沢達吉は、医師の子として誕生。幼い頃から医術と関わりが深い環境で過ごしました。
当時はお雇い外国人教師から学ぶ時代を経て、日本人自身が大学医学を担う時代への転換期です。その中で達吉は持ち前の語学力と臨床力を活かして、東京帝国大学医科大学で内科学を先導してきます。
やがて「入沢内科」を開いた達吉は、医学生の教育と患者の治療に力を注いでいきました。
その歩みは単なる大学教授の一生にとどまりません。宮内省侍医頭という重責も担い、日本の医学界に大きな足跡を残すことになります。
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医学の家に生まれた越後の少年元治2(1865)年1月5日、入沢達吉は、越後国今町で、医師・入沢恭平の子として生まれました。
入沢家は、医学と深く関わる家でした。父だけでなく、叔父の池田謙斎も医師であり、近代の日本医学に深く関わった人物でした。
こうした出自は、達吉が医学の道へ進むうえで大きな背景となりました。
時代は幕末から明治へ移り変わる時代です。医学もまた、漢方医学や蘭方医学の世界から、ドイツ医学を中心とする近代医学へと大きく変わりつつありました。
達吉は近代医学を学ぶため、帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学。明治22(1889)年に卒業して、ドイツ人内科医エルヴィン・フォン・ベルツの助手となります。
ベルツは、明治日本の医学教育に大きな影響を与えたお雇い外国人教師でした(ベルツの日記でおなじみのあのベルツです)。
当時の日本において、西洋医学を本格的に学ぶことは、国家の近代化と深く結びついていました。
医学は単に病気を治す技術ではありません。大学、病院、軍、衛生行政、そして皇室医療とも関わる重要な分野でした。
翌明治23(1890)年、達吉はドイツへ留学。ストラスブール大学やベルリン大学で、最先端の内科学や病理学を学びました。
留学期間は明治27(1894)年まで及び、達吉にとって大きな転機となります。
帰国後、達吉はいったん宮内省侍医を拝命。近代医学を本場で学んだ医師として、周囲から大きな期待を受けていました。
しかし達吉は同職を3か月で辞任。東京・日本橋に内科診療所を開設しています。
確実な記録から、その内面を細かく読み取ることはできません。しかし、臨床の場で患者と向き合うこと、そして自分の医学を実地で試すことに意味を見いだしていた可能性があります。
エルヴィン・フォン・ベルツ。御雇外国人として、達吉の指導に当たった。
助教授への就任し、教育行政の担い手となるやがて達吉は医学の教育現場と関わるようになります。
明治28(1895)年、達吉は東京帝国大学医科大学助教授に就任。後進の医師を育成する立場となりました。
この頃の帝国大学附属医院は、教育と診療の両方を担う重要な場所でした。
帝国大学の附属医院には第一医院と第二医院があり、内科、外科、眼科、産科、婦人科、小児科などが置かれていました。各科では教授、助教授、外国人教師、助手らが診療を分担していたとされます。
達吉が働いた場所は、まさに近代病院が整えられていく現場でした。
そこでは医師だけでなく、看護婦、助手、学生、患者が交差していました。『風、薫る』が描く看護の世界とも、時代の空気として重なります。
明治33(1900)年に最後のドイツ人教師ベルツが退任。翌明治34(1901)年、達吉が後を継ぐ形で教授に昇任しています。
明治日本の医学界では、外国人教師から学ぶ段階を経て、日本人医学者が自ら大学医学を担う段階へ移っていました。
達吉が後を継いだ時点で、全員が日本人教授による体制になっています。これは、日本医学史の大きな転換点でした。
このときの達吉は「入沢内科」を主宰しつつ、医学生の教育と患者の治療にあたります。
ドイツ医学を学び、それを日本に持ち帰り、大学教育の中で次の世代へ伝える。達吉の仕事は、単に患者を診ることにとどまりません。日本の内科学そのものを制度として根づかせる仕事でもありました。
看護教育との接点も?内科全般に貢献した後半生
達吉は、看護教育とも無関係ではありませんでした。
明治34(1901)年の『看病学講義録 内科・外科』(東京帝国大学医科大学の看病学講義の学生ノート)では、内科の部は三浦謹之助教授、入沢達吉教授らによる高度な内容の講義であったと説明されています。
これは、達吉が医学教育だけでなく、看護を学ぶ人々にとっても重要な知識の担い手であったことを示しています。
朝ドラ「風、薫る」は、大関和と鈴木雅という二人のトレインドナースをモチーフにした物語です。
その物語の中で、大学病院の医師が看護婦たちと向き合う場面は、単なるドラマの背景ではありません。明治の医療現場では、医師の教育、看護婦の教育、病院制度の整備が同時に進んでいたのです。
達吉の研究分野は、専門分野である内科学においても広範囲に及びました。
達吉は脚気や寄生虫病学に大きく貢献。レントゲン診断学の確立にも尽力したとされています。
脚気は、当時の日本において深刻な病気でした。軍隊、都市生活、食生活の変化とも関係し、多くの人々を苦しめました。原因が十分に解明されるまでには時間がかかり、医学者たちはさまざまな角度から研究を進めていました。
また、寄生虫症も、近代日本の衛生と深く関わる問題でした。医学は病院の中だけで完結するものではありません。水、食べ物、住環境、労働、地域衛生にも広がっていきます。
達吉の仕事は、そうした時代の課題に向き合うものでした。
大正10(1921)年、達吉は東京帝国大学医学部長に就任。また、東京帝国大学医学部附属医院長も務め、医学界の頂点に立ちました。
大学医学の教育者であり、臨床の責任者でもある。これは非常に重い立場です。
大正13(1924)年には、医学部長を辞任した後、教授職のまま宮内省侍医頭となりました。翌大正14(1925)年には東京大学を退職し、名誉教授となり、その後は宮内省侍医頭に専任しました。
若い頃、宮内省侍医を短期間で辞めた達吉が、晩年に再び皇室医療の中心へ戻ってきたことは、人生の不思議な巡り合わせにも見えます。
明治の若き医師として出発し、大正期には日本医学界の重鎮となる。その歩みは、達吉自身の努力だけでなく、日本の医学制度そのものが成長していく過程とも重なっていました。
達吉は、医学者として知られる一方で、随筆家としても名を残しました。
達吉の著作としては『入沢先生の演説と文章』『雲荘随筆』『楓荻集』『伽羅山荘随筆』などが挙げられています。
号は雲荘と名乗ったと伝わります。医学者でありながら文章をよくし、知識人としての顔も持っていました。
この点も、明治大正期の知識人らしいところです。当時の医学者は、専門家であると同時に、国家や社会の行く末を考える知識人でもありました。医学、教育、衛生、文化、国際交流。それらを一体のものとして考える時代だったのです。
昭和13(1938)年11月8日、達吉は世を去りました。享年73歳。医学の発展に人生を捧げ、一人の医師としての使命感を忘れず、患者のために奔走した生涯でした。
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