【豊臣兄弟!】織田を裏切った代償は大きすぎた… 別所長治(下川恭平)を待っていた惨劇、壮絶な最期 (2/2ページ)

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はじめは協力的だったのに……

別所長治(画像:Wikipedia)

まずは別所長治の生涯を、駆け足でたどって全体をつかみましょう。

別所長治は弘治元年(1555年)または永禄元年(1558年)に別所安治(やすはる)の嫡男として誕生しました。

生母は浦上(うらがみ)氏、兄弟には別所友之(ともゆき)や別所治定(はるさだ)がいます。

元亀元年(1570年)に父が亡くなったために家督を継承し、二人の叔父から後見を受けながら播磨の所領を治めました。

別所氏は早くから織田への臣従を決めており、天正3年(1575年)には信長と謁見し、それからもたびたび上洛しています。

やがて天正5年(1577年)に信長が紀州の雑賀衆(さいかしゅう)征伐に乗り出すと、長治はこれに増援を派遣しました。『信長公記』では長治本人の名前があるものの、実際には代理で叔父の重棟を派遣したようです。

※この場面が、大河ドラマ劇中の「バランス外交」演出につながったのでしょうか。

天正5年(1577年)10月に播磨を平定するため秀吉が送り込まれてくると、長治ははじめこれに協力的な態度をとります。

しかし天正6年(1578年)2月になって反旗を翻し、毛利と連携して三木城(兵庫県三木市)に立て籠もりました。

長治の謀叛に対して秀吉はすぐに攻勢をしかけ、次々と別所方の支城を攻略していきます。天正6年(1578年)4月には野口城(兵庫県加古川市)、同年7月には神吉城(かんきじょう。同市)そして志方城(しかたじょう。同市)が秀吉の手に落ちたのでした。

天正7年(1579年)9月には毛利や石山本願寺の援軍を得て反撃し、織田の部将である谷衛好(たに もりよし)を討ち取るなど意地を見せますが、劣勢を覆すまでには至りません。

三木城に対する包囲は次第に厳重となり、後世「三木の干殺し(ひごろし/ほしごろし)」と呼ばれる過酷な兵糧攻めを受けることとなります。城内の兵糧は喰い尽くされ、人馬の死肉すらむさぼり喰らう飢餓地獄となりました。

もはや援軍や補給の見込みはなく、覚悟を決めた長治は、秀吉に降伏する旨を伝えます。

「わしと弟の友之、そして叔父の賀相が腹を切るので、生き残った将兵については助命してほしい」

※この時点で末弟の治定は討死、叔父の重棟は叛旗を翻す直前に織田方へ寝返っています。

秀吉は長治の申し出を受け入れ、長治は妻子らとともに自刃して果てました。

今はただ うらみもあらじ 諸人の
いのちにかはる 我身とおもへば

【歌意】今はもう怨みなどない。自分の命と引き換えに、みなが助かるのだから。

辞世を詠んだ長治の介錯を行ったのは別所家臣の三宅治忠(みやけ はるただ)。ここに播磨の戦国大名・別所長治は壮絶な最期を遂げたのでした。

時に天正8年(1580年)1月17日、享年23歳または26歳。その首級は妻と一緒に雲龍寺(兵庫県三木市)に祀られています。

秀吉のせい?なぜ長治は叛旗を翻したのか

別所長治夫妻の首塚(画像:Wikipedia)

これまでずっと従順だった長治でしたが、なぜいきなり態度を変えてしまったのでしょうか。

謀叛の理由には諸説あり、そのいくつかを紹介します。

足利義昭(尾上右近)や毛利輝元から調略を受けていた? 他の播磨国衆から誘いを受けていた? 毛利派であった叔父の賀相から勧められた? 東播磨の支城を破却させられたことを恨んでいた? 名門のプライドが、秀吉の下風に立つことを許さなかった? 秀吉の横暴な態度に尊厳を傷つけられた?

これらの理由は単独ではなく、それぞれが絡み合っていたり、日ごろからの蟠りや鬱屈があったりしたのでしょう。

最後に挙げた秀吉の横暴な態度とは、天正5年(1577年)12月に秀吉が長治の従妹(別所重棟女)を小寺官兵衛孝高(倉悠貴)の息子・松寿丸(後の黒田長政)へ嫁入りさせようと計画したことです。

これは別所一門を羽柴家臣である小寺一門と同格、つまり秀吉の家臣として扱う行為にほかなりません。

別所家はあくまで織田家に臣従したのであって、織田家臣として同格にあたる秀吉に仕えた覚えはないのです。

信長の威光を嵩に着て傲慢な振る舞いに及ぶ秀吉に長治が激怒したのは無理もないことでしょう。

現代人の感覚では「そんな一時の感情やプライドで謀叛など起こして、滅ぼされては元も子もない」と思うかもしれません。しかし彼らにとっては名誉こそ命よりも大切なもので、それを踏みにじられれば、最早生き延びることすらままならないのです。

総合すると「これまで積もり積もった欝憤が、秀吉の横暴な態度が引き金となって謀叛という結果につながった」と考えられるでしょう。

終わりに

長治の「バランス外交」をたしなめる重棟。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

今回は播磨の戦国大名・別所長治がたどった生涯と、謀叛を起こした動機について紹介してきました。

果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、若き長治の葛藤と決断がどのように描かれるのでしょうか。下川恭平の好演に注目が集まります。

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※参考文献:

天野忠幸『シリーズ【実像に迫る】010荒木村重』戎光祥出版、2017年5月 橘川真一『別所一族の興亡 「播州太平記」と三木合戦』神戸新聞総合出版センター、2004年12月 日本史史料研究会編『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』朝日文庫、2020年10月 渡邊大門 編『信長軍の合戦史 1560–1582』吉川弘文館、2016年6月

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