朝ドラ「風、薫る」ペスト感染の最前線で命懸けの活動!木村文平(前野朋哉)の実在モデルとされる青山胤通の生涯
朝ドラ「風、薫る」には魅力的な人物が数多く登場します。帝都医大病院内科の教授で、夕凪の担当医・木村文平(前野朋哉)もその1人です。モデル候補として考えられるのが、明治・大正期の内科学者・青山胤通(あおやま・たねみち)という人物でした。
青山胤通は、武士の家に生まれ、若い頃から医学を学んだ人物です。
東京大学医学部を卒業したのち、ドイツへ留学。帰国後は帝国大学医科大学の内科学教授として、日本の近代医学を支える立場に立ちました。
しかし、時代の大きな転換によって、日本の医学界も大きく姿を変えていきます。
医学の主流は江戸の蘭方医学から、明治国家の西洋医学へ転換。医師たちは、ただ患者を診るだけではなく、国家の衛生、感染症対策、医学教育を担う存在になっていきました。
胤通は持ち前の学識、臨床力、教育力を活かして活躍しました。
しかし、ようやく医学界で確かな地位を築いたと思った時、胤通にまさかの事態が訪れます。香港で流行したペスト調査に派遣され、現地で自らも感染することになったのです。
青山胤通の生涯について見ていきましょう。
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内科教授・木村文平(前野朋哉)。彼のモデルとなったのが、明治期の内科医・青山胤通である。
※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。
幕末の江戸に生まれた藩士の子安政6(1859)年5月15日、青山胤通は江戸・麻布で美濃苗木の下級藩士で神道家でもあった、青木景通の三男として生を受けました。幼名は捨松(助松とも)と名乗ります。
胤通が生まれた時代、幕末の日本が大きく揺れていた時代です。
ペリー来航以来、尊皇攘夷派が台頭。次第に幕藩体制は揺らぎ、時代は大きく変わろうとしていました。
慶応3(1867)年10月には、将軍・徳川慶喜は朝廷に政権を返上(大政奉還)。これによって幕藩体制は終わりを告げ、日本は新たな時代を迎えます。
明治となると、青木家の暮らしも大きく変わりました。
父・景通は政府の神祇事務局に出仕。神祇官権判事や神祇少祐などの要職を歴任していきます。
明治2(1869)年、胤通は平田信胤(平田銕胤の養子)の養子となり、平田姓を称することとなります。
しかし明治4(1871)年、信胤が死去。胤通は青木家に戻ることとなりました。
その後、胤通が志を立てたのは、医師の道です。
明治15(1882)年、青山胤通は東京大学医学部を卒業。近代西洋医学を学んだ医師としての道を歩み始めます。
当時の東京大学医学部は、日本に西洋医学を根づかせる中心的な場所でした。
東京大学医学部の前身は、江戸時代の種痘所や医学所です。同組織は幕末から明治にかけて制度を変えながら発展していきました。
東京大学の歩みによれば、慶応元(1865)年には内科、外科、解剖、生理、病理、薬剤学などの科目が置かれており、近代医学教育の土台が整えられていきました。
胤通は卒業後、ドイツへ留学。明治16(1883)年にベルリン大学へ渡り、内科学を学びました。ベルリンでは、ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウら当時の医学界を代表する学者たちのもとで、近代医学の方法を身につけたとされます。
当時の日本において、ドイツ医学は大きな影響力を持っていました。医学用語、教育制度、病院運営の方法まで、明治政府はドイツ式の近代医学から多くを学ぼうとしていたのです。
ドイツの医師であるルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ。胤通が師事した。
ペスト流行!その時胤通は最前へ…やがて胤通は、日本の医学界を先導する一人となります。
明治20(1887)年、青山胤通は日本へ帰国。青山は東京帝国大学医科大学(東京大学医学部)の教授に就任しました。
この点が、朝ドラ「風、薫る」の木村文平と重なるところです。木村文平は作中で内科教授として登場し、ヒロイン・一ノ瀬りんや大家直美と関わりますね。
実際に彼女たちのモデルである大関和や鈴木雅が実習したであろう時代、胤通は内科教授として彼女たちと関わっていた可能性が高いのです。
やがて胤通の名は、単なる大学教授にとどまらず、「青山内科」と呼ばれるほど大きな存在感を持つようになります。
明治24(1891)年に医学博士号を取得。研究者としての名声も高めていきます。
明治30(1897)年に東京帝大医科大学附属病院長に就任。明治34(1901)年には学長へ就任して組織の運営に当たりました。
当時の日本において、医科大学の教授は、単に教壇に立つだけの人物ではありません。
患者を診る臨床医であり、医学生を育てる教育者でもあり、国家の医療制度や衛生行政にも影響を持つ存在だったのです。
やがて胤通の生涯で最も衝撃的な出来事が訪れます。
明治27(1894)年、イギリス領香港でペストが流行。明治政府は、胤通と北里柴三郎らを現地へ派遣し、同地で調査へと当たらせました。
胤通は臨床と解剖の立場から調査にあたり、19体の解剖と45例の患者観察を行ったとされています。
そして現地の劣悪な衛生状態のなかで、自らもペストに感染。一時は危篤状態に陥ることとな理、ついには棺桶が用意されるほどだったとされています。
これは、医学者としての名誉ある任務であると同時に、命を賭けた現場でした。
しかし胤通は奇跡的に回復を果たして生還。この調査活動の後に発表された臨床・病理の報告は高く評価されました。
胤通は、研究室や講義室だけで医学を語るのではなく、感染症が猛威をふるう現場へ赴き、患者と遺体に向き合い、病の正体を追いかけたのです。
明治34(1901)年には医科大学長に就任。明治45(1912)年には宮内省御用掛として明治天皇の診療にもあたりました。
大正4(1915)年には伝染病研究所所長に就任し、大正6(1917)年には男爵に叙されて華族に列しています。
そして同年12月23日、胤通は世を去ります。享年は59。感染症研究や医学教育に命と人生をかけ、後進の育成に奔走した生涯でした。
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