『豊臣兄弟!』ズタズタに引き裂かれたプライド…秀吉(池松壮亮)が犯した失敗と「播磨大誤算」の原因
織田信長(小栗旬)の命を受けた羽柴秀吉(池松壮亮)は、中国方面軍の司令官として播磨へ乗り込んだ。
しかし、順調に進むかに見えた播磨攻略は、やがて思わぬ暗礁に乗り上げる。織田方についたはずの別所長治(下川恭平)が突如離反したのである。
その背景には、秀吉が進めた政策への反発があった。秀吉を苦境に追い込んだ、大河ドラマ『豊臣兄弟!』第22回「播磨大誤算」の真相を探ってみたい。
播磨入りした秀吉。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
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播磨の調略をすすめる小寺官兵衛。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
このシーンで官兵衛は、姫路城を秀吉に譲ると申し出る。秀吉はもとより秀長も村重も驚きを隠せないが、竹中半兵衛(菅田将暉)は国衆全員が織田に人質を出すように求めた。
つまり半兵衛からすると、いくら官兵衛が自信ありげに播磨の国衆を調略したと言っても、そう易々とはいかないだろうと予測していたのである。
順調すぎる播磨攻略を警戒する竹中半兵衛。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
この予測は後に現実となり、秀吉を大いに悩ませることになるのだが、それでも当初は官兵衛の働きと織田勢の勢いに押され、多くの国衆が秀吉の味方に付くことを誓ったのである。
別所長治が抱いた名門武家の誇り織田に味方すると決めた播磨の国衆たちは、次々と姫路城の秀吉のもとに出仕した。その中に別所長治の叔父で後見役の別所賀相(よしちか/田中美央)がいた。
別所長治の後見役・別所賀相。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
本来ならば長治が挨拶に来るべきなのに、どちらかと言えば毛利寄りと見られていた賀相が現れたのだ。これに対し官兵衛は不審に思い「長治殿はいかがいたした」と問いただすも、賀相は「主は急な病にて出仕できない」と答えた。
この後、三木城で家臣相手に槍の稽古を行う長治が登場し、賀相の弟で同じく後見役の叔父・別所重棟(しげむね/忍成修吾)に対し、
「織田に付くことに決めたが、別所家当主が成り上がり者の秀吉に挨拶に行く必要はないと言う賀相の顔を立てた」と述べている。
若き別所家当主・別所長治。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
別所家は播磨国の半国近くを勢力下に置いており、その所領高は16万石近くに達していた。当時の秀吉の所領は近江長浜12万石前後であり、規模だけを見れば長治のほうが上回っている。
しかし長治や賀相には、それ以上に播磨守護の赤松氏の血を引くという名門意識が強かったのだ。それゆえに彼らの目には、秀吉をして成り上がり者と映ったのは当然のことだった。
だが史実では1570年(永禄13年)1月、長治は重棟とともに上洛し信長に出仕している。これは秀吉が小寺官兵衛と誼を通じた時期よりも早く、この時点で別所家はすでに信長の配下になっていたのだ。また秀吉の播磨入りの直前には、長治は信長の雑賀攻めにも従ったことが『信長公記』に記されている。
別所賀相の弟で新織田派の重棟。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
つまり信長としては、5千人程度の軍勢を動員可能な播磨最大の勢力を誇る別所家を確保し、万全を期したうえで秀吉を送り込んだのだ。しかし、長治は突如として織田家を裏切り三木城に籠城したのである。
なぜ別所長治は織田を裏切ったのかでは、なぜ長治は離反へと向かったのだろうか。その理由は、賀相が秀吉に出仕した場面に端的に描かれていた。
そこで賀相に一枚の書面が渡される。そこには宿原城・衣笠城・毘沙門城など12の城の名が書かれていた。「これらの城は我らにとって守りの要でございます。これらを打ち壊せと申されるのか」と言う賀相に、秀吉は「案ずることはござらん。播磨が一つになればこれらの城は無用になりまする」と答えるのである。
このような城の打ち壊しを「城割」「破城」といった。そもそも城というものは「戦争のために臨時的に構えるもの」であったため、城郭が築き始められた平安から鎌倉時代は、戦争が終われば役目を終えた城は壊される、という考え方があった。
しかしその後、城そのものが支配者クラスの象徴的な建築物になると、統治拠点として維持する考え方が広まり、城を壊すという発想は次第に薄れていった。
だが戦国時代になると、攻撃側が敵の城を落とした後に破却する「城割」が頻繁に行われるようになる。つまり、勝者がその地域の支配を安定させるためには、城は壊したほうが統治しやすいからだ。
城割を推進する織田信長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
この破壊行為を推進したのが信長だった。侵攻した若狭・越前・伊勢・伊賀などで国中の城や砦の破壊を進めていった。だから、秀吉の別所家に対する「城割」の命令は、信長政権の方針を反映したものであった可能性が高い。
しかし、別所家は信長に敗北して服属したわけではなく、むしろ自発的に協力した同盟者に近い立場だった。それにもかかわらず、秀吉は三木城の支城群の破却を求めたのである。
これは別所家にとって屈辱以外の何ものでもなかっただろう。信長に協力したにもかかわらず、防衛網の解体を命じられたのである。支城破却を命じた後に官兵衛が「長治様と重棟殿なら分かってもらえるはず」と追い打ちをかけるが、この命令は到底承諾できないものであった。
そして長治はプライドをズタズタにされ、信長への不信感は募る一方であったと考えられるのである。
播磨国三木城諸国古城之図/浅野文庫所蔵(Wikipedia)
こうして1578年(天正6年)2月、長治は三木城に立て籠もる。それに呼応するように同じく「城割」に反発する播磨の国衆や豪族たちが反織田に立ち上がった。
そしてこの混乱は丹波にも飛び火し、八木城の波多野氏が反乱、さらに三木城攻めに参加していた荒木村重も離脱し、拠点の有岡城に籠城するという事態を引き起こした。
播磨の「城割」に端を発する「播磨大誤算」は、三木城が落城する1580年(天正8)年まで足掛け3年続き、信長の中国戦線を大きく停滞させ、天下統一事業にも急ブレーキをかけることになったのである。
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福田千鶴著 『城割の作法』吉川弘文館
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


