『豊臣兄弟!』さらば半兵衛…なんと江戸時代 中期まで続いた竹中半兵衛(菅田将暉)の子孫たちを一挙紹介

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『豊臣兄弟!』さらば半兵衛…なんと江戸時代 中期まで続いた竹中半兵衛(菅田将暉)の子孫たちを一挙紹介

第23回放送「さらば半兵衛」では、羽柴秀吉(池松壮亮)の軍師として活躍してきた竹中半兵衛重治(菅田将暉)が、いよいよ最期の時を迎えるようです。

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若くして戦陣に没した天才軍師の志は小寺官兵衛(倉悠貴)に受け継がれ、秀吉の天下獲りを見事に支え上げたのでした。

そんな竹中半兵衛には子孫がおり、その家名は後世に伝えられています。今回は江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』より、竹中重治の子孫たちを紹介したいと思います。

菅田将暉の好演が話題を呼んだ竹中半兵衛。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

半兵衛の祖父・竹中重氏

生没年不詳

通称は六郎左衛門(ろくろうざゑもん)、それ以外の情報は『寛政重脩諸家譜』に記述がありません。

半兵衛の父・竹中重元

明応8年(1499年)生~永禄3年(1560年)2月7日没/61歳

官途名は遠江守、生母は不詳。斎藤道三(麿赤兒)に仕え、美濃国不破郡(岐阜県垂井町)の岩手城(いわでじょう。竹中氏陣屋跡)に立て籠もった岩手弾正を滅ぼし、岩手城の主となりました。

後に菩提山城(ぼだいさんじょう。同町)を築いて6千貫文の所領を治めます。死後の法名は常善(じょうぜん)、禅憧寺(ぜんとうじ。同町)に葬られました。

半兵衛の子(2世代目)・竹中重門

落合芳幾「太平記英勇傳 竹中半兵衛重治」

天正元年(1573)生~寛永8年(1631年)閏10月9日没/59歳

通称は吉助(よしすけ)、官位は従者五位下・丹後守。生母は安東範俊女(のりとし娘)です。

羽柴秀吉に仕え、秀吉死後の関ヶ原合戦では徳川家康(松下洸平)率いる東軍に与しました。小西行長(こにし ゆきなが)を生捕りにした武功をもって恩賞に与かります。

その後も徳川家(家康・秀忠)に仕えて大坂の陣(冬・夏とも)に従軍し、6千石を領する大身となりました。

死後の法名は出堂(しゅつどう)、芝泉岳寺(東京都港区)に葬られます。

半兵衛の孫(3世代目)・竹中重常

慶長3年(1598年)生~寛文4年(1664年)7月4日没/67歳

通称は竹之助(たけのすけ)、官位は従五位下・越中守。生母は加藤光泰女。慶長19年(1614年)に家康へ出仕し、大坂冬・夏の陣で初陣を飾ります。

寛永11年(1634年)に第3代将軍・徳川家光の側近となり、その後は甲府城(山梨県甲府市)の守備や久能山東照宮(静岡市駿河区)の改修などに尽力しました。

また内裏造営の功績によって朝廷から備前長光(びぜんながみつ)の太刀を賜わっています。全体的に、建築関係の才能を発揮したようです。

死後の法名は祖傳(そでん)、故地の禅憧寺に葬られました。

半兵衛の曾孫(4世代目)・竹中重高

寛永11年(1634年)生~延宝6年(1678年)9月2日没/45歳

通称は吉之丞(きちのじょう)、官途名は左京(さきょう)。生母は杉原長房女。

慶安4年(1651年)に第4代将軍・徳川家綱へ出仕して、寛文4年(1664年)12月10日に家督を承継します。

江戸城柳間(やなぎのま)に詰め、6千石のうち千石を弟の竹中重之に分け与え、これが後代の先例となりました。

死後の法名は永隆(えいりゅう)、芝の泉岳寺に葬られます。以後、竹中家の墓所は泉岳寺と定められます。

半兵衛の玄孫(5世代目)・竹中重長

歌川国芳「太平記英勇傳 建中官兵衛重治」

寛文元年(1661年)生~天和2年(1682年)6月14日没/22歳

通称は吉之丞、官途名は主殿(とのも)、生母は池田長賢女。寛文10年(1670年)12月25日に徳川家綱へ出仕し、父を亡くした延宝6年(1678年)12月6日に家督を継承しました。

しかし22歳という若さで世を去ってしまい、子供がいなかったため、家督は養子の竹中重栄(しげよし)が受け継ぎます。法名は宗全(そうぜん)。

半兵衛の来孫(6世代目)・竹中重栄(しげよし)

寛文9年(1669年)生~宝暦10年(1760年)6月16日没/92歳

通称は元之助(げんのすけ)、官途名は主膳(しゅぜん)。実父は加藤重貞、生母は加藤茂吉女。

重長が亡くなる前に養子となることで、竹中の家督を存続できました。天和2年(1682年)12月16日に家督を継承し、明けて天和3年(1683年)2月7日に第5代将軍・徳川綱吉へ出仕します。

正徳5年(1715年)8月3日に大明院宮(公弁法親王。第111代・後西天皇皇子)のお供で京都へ赴任、享保14年(1719年)で引退するまで奉公しました。

それから30年以上も長寿を誇り、死後の法名は秀英(しゅうえい)と号されます。

半兵衛の昆孫(7世代目)・竹中元敏

元禄5年(1692年)生~宝暦3年(1753年)7月24日没/62歳

通称は元之助、官位は従五位下・丹後守。初名の竹中重顕(しげあきら)から竹中尹重(ただしげ)・竹中治行(はるゆき)そして竹中元敏と度々改名しました。

宝永2年(1705年)10月1日に徳川綱吉へ出仕し、父が隠居した享保14年(1719年)7月18日に家督を継ぎます。

宝暦2年(1752年)3月15日に大番頭(将軍護衛隊長)となりますが、翌年に大坂城の守衛任務中に世を去りました。

法名は徹心(てっしん)と号された通り、最期まで任務に忠実だったのでしょう。

半兵衛の仍孫(8世代目)・竹中元儔(もとかず)

竹中半兵衛重治(画像:Wikipedia)

享保6年(1721年)生~安永9年(1780年)12月20日没/60歳

通称は厚之進(あつのしん)、官途名は主膳。生母は不詳。はじめ竹中治看(はるみつ)、次いで竹中元滌(もときよ)そして元儔と改名しました。

元文4年(1739年)11月7日に第8代将軍・徳川吉宗へ出仕し、宝暦3年(1753年)10月4日に家督を承継します。

現役中の詳しい事績は記されておらず、死後の法名は常心(じょうしん)と号されました。

半兵衛の雲孫(9世代目)・竹中元恭(もとゆき)

生没年不詳

通称は縫殿之助(ぬいのすけ)、官途名は左京。実父は鳥居忠意(ただおき)、生母は麻衛(まえ)氏です。

家督を継ぐため元儔に婿入りし、明和4年(1767年)に第10代将軍・徳川家治へ出仕しました。しかし病のため後継者の地位を辞退します。

半兵衛の耳孫(10世代目)・竹中重寛

明和5年(1768年)生~没年不詳

通称は厚之進、官途名は主殿。竹中元恭と竹中元儔養女の間に誕生しました。元服してはじめは竹中元智(ちかとも)と名乗り、後に重寛と改名。天明元年(1781年)3月5日に祖父の元儔から家督を譲られます。

天明3年(1783年)に徳川家治へ出仕し、池田政弼女(まさすけ娘)を妻に娶りました。

半兵衛の末孫(11世代目)・竹中吉太郎

生没年不詳

諱(いみな。実名)は不詳、生母についてもわかっていません。姉妹4人に囲まれていたようで、女性社会で色々と揉まれたのでしょうか。

吉太郎という通称が記録されていることから、元服した≒少なくとも10代後半以上までは生きていたのは確かのようです。

『寛政重脩諸家譜』は、ここで終わっていました。

今回は、竹中半兵衛重治の祖先や子孫たちについて紹介してきました。豊臣政権は遠い彼方、養子でつないだとは言え、徳川幕府の第10代将軍の時代まで続いたとは驚きですね。

大河ドラマで言えば「べらぼう(令和7・2025年放送)」の時代。せっかくだからこの先も家名をつなげて明治維新を迎え、近現代まで続いてくれたらと思います。

話を戻して大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、菅田将暉演じる竹中半兵衛がどんな最期を飾るのか、心して見守っていきましょう!

※参考文献:

『寛政重脩諸家譜 第2輯』国立国会図書館デジタルコレクション

※トップ画像:大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより

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