豊臣秀吉の“中国大返し”は奇跡ではない!明智光秀を出し抜き「本能寺の変」を勝機に変えた周到すぎる仕込み (2/4ページ)

Japaaan

大事なのは、秀吉が超人的な奇跡を起こした伝説そのものよりも、あらかじめ奇跡(的な行軍)が可能となるような条件を整えていたという点です。

豊臣秀吉の座像

即断の裏側

本能寺の変の急報が秀吉に届いたのは、六月三〜四日の深夜とされます。

明智光秀の密使が毛利軍に向かう途中で秀吉の陣に迷い込み、持っていた書状から事態が判明したと言われています。

楊斎延一による「本能寺焼討之図」(Wikipediaより)

京都と備中は二百キロ以上離れており、普通なら信長の生死はすぐには分かりません。それでも秀吉は、信長が討たれたとほぼ決めつける形で、即座に動き始めました。

この異様な速さについて、実は秀吉は弟の豊臣秀長に命じ、備中から丹波を経て京都へ至る独自の情報ルートを作り、使者を頻繁に往復させていたという説があります。

もしそうだとすれば、秀吉は光秀の不穏な動きを事前に察知していたことになります。

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