豊臣秀吉の“中国大返し”は奇跡ではない!明智光秀を出し抜き「本能寺の変」を勝機に変えた周到すぎる仕込み (3/4ページ)
密使の書状と合わせれば、光秀が本気で動いた以上、信長が生き延びる可能性は極めて低いと判断しても不思議ではありません。
さらに、秀吉は本能寺の変の前から毛利氏との講和交渉を進めていました。
彼は当初、複数国の割譲を求める強気の姿勢を見せていたのですが、本能寺の変を知ると要求を三ヵ国にまで下げ、清水宗治の切腹を条件に和睦をまとめます。
もともと、高松城の救援が難しくなった毛利側は和睦を模索しており、信長の死を知らないこともありこの条件を受け入れます。
この素早い和睦こそ、中国大返しのスタートラインだったのです。
設計された高速移動では、なぜ秀吉は八日で京都近郊まで戻ることができたのでしょうか。
その鍵は、信長の中国出陣に備えて行われていた街道整備にあります。秀吉はあらかじめ道路を広げると人馬の休憩所や調理施設を整え、さらに信長の親衛隊のための御座所を各地に用意していたのです。
この御座所は単なる宿泊施設ではなく、補給基地であり情報拠点でもありました。
秀吉はそこに蓄えておいた物資を使い、補給の手間を減らしながら、なおかつ情報を素早く受け取れる体制を作っていたのです。
六月八日夜に姫路城へ到着した秀吉は、二日間休んで九日に明石へ進みます。そして十日には兵庫、十一日には尼崎へと進軍し、十二日には池田恒興・中川清秀・高山右近らと合流しました。
山崎の戦いで光秀を破ったのは十三日のこと。