『豊臣兄弟!』竹中半兵衛の死後、秀吉四参謀はどうなった?謎多き家伝「武功夜話」が伝えるそれぞれの最期

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『豊臣兄弟!』竹中半兵衛の死後、秀吉四参謀はどうなった?謎多き家伝「武功夜話」が伝えるそれぞれの最期

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第23話「さらば半兵衛」で、ついに竹中半兵衛重治(菅田将暉)が逝ってしまいました。

もはや死期が近いと悟った半兵衛は、まさに最後の力を振り絞るように三木城攻めの陣中にいました。そして、羽柴(豊臣)秀吉(池松壮亮)に三木城攻めの様子が見たいと懇願します。

桜舞い散るなか、秀吉・秀長(仲野太賀)・蜂須賀小六正勝(高橋努)・前野将右衛門長康(渋谷謙人)ら仲間たちに担がれ、秀吉本陣の平井山山頂から三木城攻めの戦況を確認。その時、宇喜多直家(緋田康人)が毛利輝元(濱正悟)を裏切り織田信長(小栗旬)に寝返ったという報せがもたらされました。

死期迫る半兵衛と秀長。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

半兵衛の主張に従い秀長が攻略した生野銀山が産出する銀が、直家調略に功を奏したのです。退却していく毛利勢を見ながら歓喜する秀吉たち。その中で半兵衛は静かに息を引き取っていきました。

豊臣秀吉を支える草創期からの家臣である、豊臣秀長・竹中半兵衛重治・蜂須賀小六正勝・前野将右衛門長康の四人をして秀吉四参謀と称する『武功夜話』

今回は半兵衛の死後、残された三人の参謀たち(秀長・正勝・長康)の想いを『武功夜話』に描かれた最期から読み解いていきましょう。

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退却する毛利勢を見て歓喜する秀吉と三参謀(秀長・正勝・長康)たち。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

半兵衛が遺した秀吉への警鐘

四参謀の中で最初に没したのは、竹中半兵衛重治です。1579年(天正7年)7月6日、36歳で没しました。

『武功夜話』では、半兵衛は亡くなる直前まで秀吉と信長、そして織田諸将との関係を危惧していました。史実の半兵衛は秀吉の家来というよりも、信長から命じられ秀吉を扶ける与力的な立場にありました。

死の直前まで秀吉を案じていた半兵衛。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

信長は、徹底した能力主義者です。そのため織田家中では抜きんでて優秀な秀吉は、順調に出世していきます。反対に失敗を犯せば信長から大きな不興を買いました。しかしそのような秀吉と信長の関係を妬む武将たちも多く、その調整役としても半兵衛は大きな存在でした。

半兵衛は「覇を為す者は、己を凌ぐ者は心好しと為さず」という名言を残しています。これは自分の死後、秀吉が織田家中で手柄を立てれば立てるほど、主君信長との確執が生じることを心配した言葉ともされます。

徹底した能力主義を実践した織田信長。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

長康は半兵衛の言葉に対し「遺筆なお生あってその一言うところ濠然として秋霜の如し」と述べています。重い病で生死をさ迷うような状態でも、半兵衛の冷静な観察眼に対し畏敬の念を表わしていました。

しかし半兵衛の心配は、1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が没することで杞憂に終わるのです。

正勝が死の床で語った豊臣政権への不安

次に亡くなったのは蜂須賀小六正勝です。秀吉が関白宣下を受けた翌年の1586年(天正14年)になると小六は病に臥せ大坂で養生していましたが、7月8日に没します。享年61歳でした。

蜂須賀正勝と秀吉。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

正勝は見舞いに訪れた長康に対し「自分の今日があるのは太閤殿下のおかげだ」と述べ、阿波17万石を拝領している子息・家政の後事を頼みました。

ただ一方で、「昔と違い今は秀吉のもとには多くの才子がいる。そなたも意見を述べる時は重々注意したほうがよい」としたうえで「我らは戦には強いが、平時のこととなると彼らの方に分がある。自分も上京していろいろと殿下に意見したいこともあるがこの身では叶わない、どうか長康殿も自分を大切にして欲しい」と最後は盟友の身を案じています。

一見武骨でありながら仲間たちを想う優しさをもっていた正勝。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

秀吉の天下統一事業が進むにつれ、かつて秀吉を支えた宿老たちの立場に異変が起きつつあることを、死を前にして正勝は予感していたのです。

秀長亡き後、ただ一人残された長康

1590年(天正18年)は、秀吉にとってはまさに筋目といってよい年でした。小田原の役で北条氏政・氏直父子を降し、名実ともに秀吉の天下統一が果たされたのです。

北条氏を降し天下人となった秀吉。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

しかしこの年になると、秀長は病のため小田原参陣どころか、上京して政務を行うことすら叶いませんでした。この年の初め、長康は見舞いのため郡山城に訪れ、秀長に問われるまま秀吉の施政について答えます。長康から聞く秀吉の近況について、秀長は病床から切々と意見を述べますが、その多くは批判的なものでした。

長康はやせ細り、声も枯れてしまった秀長を正視できず「思わず眼をそらし」と述べています。秀長が直接秀吉に諌言できない無念を語る「殿下は鶴松君の誕生以来、我ら古参の者の意見も軽んじられ、淀殿側近の意見ばかり聞くようになってしまった」と嘆いているのです。

病床において秀吉の施政について批判的であったとされる秀長。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

1591年(天正19年)2月、秀長は郡山城にて死去、享年52歳でした。秀長について『武功夜話』は「御舎弟・秀長様は関白殿下が藤吉郎と称していたころから多くの合戦に参加し、その武功は数知れない。また兄弟の序を貫き、弟としての道を尽くした本当に真義の厚い方であられた。さらに胆力があり、めったなことには動じない。数々の貢献を果たしてきたが、決して驕ることがない大人物であった。その誠実さと徳を想い、諸将はみな心から喜んで従った」と称賛しています。

秀長が心から信用していたとされる千利休(Wikipedia)

秀長の死から間もなく、千利休が秀吉の命で切腹して果てました。長康は小田原から戻ると利休と会談を行っています。そこで利休は「病床の秀長公から朝鮮出兵をはじめ、いろいろ殿下に諌言するように求められました。貴殿はどのようにお考えか」と問いかけました。長康は「朝鮮出兵は間違いなく国内疲弊をもたらす。自分は反対だ」と利休に述べたとされます。

死期が迫った秀長としては、自分のほかに秀吉へ諫言できるのは、もはや利休をおいてほかにいないと思い詰めていたのでしょう。それが利休切腹に結びついてしまいました。一方、長康にとっても利休はわずかに残された盟友の一人でした。『武功夜話』は、利休の死について「一人但馬守様(長康)、年来の心約の人を失い落胆限り無く候」と語っています。

こうして秀吉四参謀は、ついに長康一人になってしまいました。そして盟友たちを喪ったあとの長康の人生は、過酷なものとなっていきます。長康は秀吉に領国の但馬に戻り隠居したいと申し出ますが、それは許されませんでした。

文武に優れていた長康。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

長康は蜂須賀正勝と並び武勇の人と思われがちですが、実は内政面でも豊臣政権を支えた重臣として秀吉からも頼りにされていたのです。豊臣政権の京都政庁である聚楽第を造営し、城下の千本屋敷で政務を担当後陽成天皇聚楽第行幸の際にはその饗応役を務めています。

出会った頃の長康と秀吉。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

秀吉はそのような長康の文武における才能を買い、朝鮮出兵(文禄の役)では軍監および奉行を命じます。もとよりこの件に関しては反対の立場にあった長康ですが、2,000名の兵卒を率いて渡海しました。朝鮮では明の大軍による猛攻を受け、一族をはじめ多くの家臣を失いますが、奮戦して明軍を退けています。

ただこの出征で長康の心には大きな傷が残りました。その傷とは現地で日本軍の惨状を目にしたのにもかかわらず、秀吉に朝鮮出兵の誤りを正面から諫言できなかったことでした。それほどに秀吉との距離が遠くなっていたのです。

それでも秀吉は、関白職を譲った秀次の付家老および後見役を長康に任せます。そして1595年(文禄4年)、秀次が謀反の罪により秀吉に誅されると、長康も秀次を弁護したという罪で自害を命じられました。享年68歳でした。

秀吉四参謀として半兵衛・正勝・秀長没後、ただ一人豊臣政権を支えた長康。その人生は、悲劇的結末を迎えたのです。

最後まで秀吉を支えるも非業の死を遂げる長康。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

長康の死から3年後、秀吉も61歳の生涯を閉じます。死に際して秀吉は、徳川家康をはじめとする諸大名に、秀頼の後事を請願しました。しかし天下は家康のものとなり、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で秀頼は自害し、豊臣氏は滅亡しました。

秀吉四参謀たちは、真に豊臣家の存続を願っていたに違いありません。しかし結論ではありますが、彼らの切なる気持ちは秀吉に届かなかったのです。

最後にそれを象徴するような長康の言葉を紹介して、この記事を終わりにします。そこには豊臣家の将来が暗示されていたのです。

「小田原出陣に先だって若君(鶴松)が誕生した。側室・淀君が母親である。世継ぎの誕生は秀吉を大いに喜ばせた。母親の淀殿の手柄は格別とし、その縁に連なる者たちはいよいよ重用されることになった。五十歳を過ぎてからの我が子の誕生というものは、武士の道を極め、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた勇将でさえも、我が子をいつくむ思いのあまり、煩悩によって澄んだ鏡が曇っているように見える。秀吉は我が子を守るため、信頼すべき古参家臣・譜代衆はもとより、新参・外様衆の区別なく人質を要求した」

半兵衛は秀吉と信長の関係を案じ、小六は古参家臣たちの立場を憂い、秀長と長康は豊臣政権の行く末を懸念しました。『武功夜話』が描く四参謀は、とても深い信頼で結ばれていたのです。

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※参考文献
松浦武著『「武功夜話」研究と三巻本翻刻』

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