豊臣秀吉の出世ルート、実は“派手さゼロ”だった!織田信長の切り札になれた理由を史料から読み取る (2/4ページ)

Japaaan

蜂須賀正勝(小六)(Wikipediaより)

こうした、地味ではあるものの確実な成果が、信長の目に留まっていったのです。

撤退戦の衝撃

秀吉の評価を決定づけたのは、永禄十一年の上洛戦に続く金ヶ崎の退き口でした。

この撤退戦は、信長の軍歴の中でも最も危険な局面の一つです。

朝倉義景を攻めていた信長は、浅井長政の裏切りによって前後を挟まれます。信長はわずかな供回りだけで撤退を開始し、軍勢は総崩れ寸前でした。

朝倉義景(Wikipediaより)

その背後を守ったのが秀吉でした。殿軍として追撃を受け止め、信長が京都へ逃げ切るための時間を稼いだのです。

この働きは『信長公記』にも記録され、秀吉の名が史料に頻繁に登場する契機となりました。

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