豊臣秀吉の出世ルート、実は“派手さゼロ”だった!織田信長の切り札になれた理由を史料から読み取る (3/4ページ)

Japaaan

殿軍は最も危険で、最も損耗が激しい任務です。秀吉はこの重圧の中で冷静な判断力を発揮し、追撃してくる朝倉軍を巧みにいなし続けました。

この撤退戦は、信長にとって秀吉の実力のほどを印象付けた決定的な瞬間だったと言えるでしょう。

調略だけでなく、戦場での統率力も兼ね備えている――その事実が、信長からの評価を一段階引き上げたのです。

統治への昇格

秀吉が次のステップへ進むのは、姉川の戦いの後でした。

彼は浅井氏を抑えるために築かれた横山城の城番に任命され、北近江の統治を任されます。

横山城は単なる前線基地ではありません。浅井氏の動きを封じ、周辺の村落を安定させるための拠点であり、信長が最も信頼する家臣にしか任せない役割でした。

秀吉はここで類稀なる統治能力を発揮します。

戦乱で荒れた寺院の復興を支援し、服属した者への融和策を進め、旧浅井家臣を自らの家臣団に取り込んだのです。

この柔軟な統治姿勢は、のちの豊臣政権の基盤となる包摂の政治の萌芽ともいえるものです。

さらに秀吉は、交通の要衝である今浜(のちの長浜)を新たな拠点に選びます。

この判断は、のちの大坂城築城にも通じる交通重視の発想を示しており、秀吉の戦略眼を信長に印象づけました。

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