着物姿でアメリカ名門大学へ…『武士の娘』で世界に日本を伝えた杉本鉞子の波乱の生涯【後編】

Japaaan

着物姿でアメリカ名門大学へ…『武士の娘』で世界に日本を伝えた杉本鉞子の波乱の生涯【後編】

1925(大正14)年、杉本鉞子(すぎもと えつこ)の名は『武士の娘』によって、海の向こうで広く知られるようになりました。明治の武家に生まれた一人の女性が、自らの少女時代や家族の記憶、日本での暮らしを英語で綴ったこの作品は、アメリカの読者に大きな驚きと感動を与えます。

しかし、鉞子の歩みは「ベストセラー作家になった」で終わりではありませんでした。

彼女はその後も、アメリカの教壇に立ち、着物姿で日本文化を語り、帰国後も執筆を続けました。日米関係が少しずつ緊張していく時代にあって、鉞子は自らの言葉で日本を伝え続けたのです。

今回は、『武士の娘』の成功後、杉本鉞子がどのように日本文化を海外へ伝えたのか、その後半生をたどっていきます。

【前編】の記事はこちら↓

明治の武家娘がアメリカで大ベストセラーに!なぜ杉本鉞子の『武士の娘』は海外で愛されたのか【前編】

杉本鉞子(wikipediaより)

『武士の娘』の成功

1925(大正14)年、鉞子は、とうとう『武士の娘』を出版しました。この作品は自伝的な内容で、日本で暮らした幼少期の様子からアメリカでの生活までが描かれています。

当時の欧米では、日本について紹介する本はあっても、日本人女性自身が自らの人生を語る機会は、そう多くありませんでした。本書の中には、武家のしつけや家族との思い出、年中行事の様子などが登場します。

読者は遠い国の文化を知るだけでなく、一人の女性の成長物語としても作品を楽しみました。『武士の娘』は各国語に翻訳され、やがて、鉞子の名前は海外で広く知られるようになります。

日本文化を伝えた教育者

鉞子は作家としてだけでなく、日本文化を紹介する活動にも力を注ぎました。アメリカではコロンビア大学で日本語や日本文化を教えています。

当時、アメリカ人が日本について学べる機会は限られていました。そのことを考えると、日本で生まれ育った人物から直接話を聞けることは、学生たちにとって貴重な経験だったはずです。

鉞子は、着物姿でキャンバス内を歩き、教壇にたったようです。当時のアメリカで着物姿の日本人女性を見る機会は多くありませんでした。その姿は学生たちの記憶にも残ったと考えらえます。

帰国後の執筆活動

1927(昭和2)年、鉞子は日本に帰国しましたが、その後も創作活動を続けました。『成金の娘』『農夫の娘』『お鏡お祖母さま』などの作品を発表し、日本の暮らしを海外へ紹介しています。

これらの作品に登場するのは、著名人ばかりではありません。農村で働く人々や家族の日常など、ごく身近な風景が数多く描かれています。そうした何気ない日常こそが、海外の読者にとって日本社会を理解する手がかりになったのです。

鉞子が生きた時代、日米関係は少しずつ緊張を深めていきました。その一方で、人や文化の交流は続いていました。日本で生まれ育ち、長年アメリカでも暮らした鉞子は、両国の社会を実際に経験した数少ない存在でした。

彼女の著作には、日本人だからこそ分かる価値観や習慣が数多く記されています。同時に、海外の読者が何に興味を持つのかも理解していました。だからこそ、その文章は文化の違いを越えて読まれたのかもしれません。

杉本鉞子は1950(昭和25)年6月20日、77歳で亡くなりました。彼女の名前を知る人は決して多くありません。しかし、『武士の娘』を開けば、明治から昭和初期にかけての日本人の暮らしや価値観に触れることができます。

日本の地方で育った一人の女性が海を渡り、自らの言葉で日本を語った。その歩みは、近代日本が世界へ開かれていった時代を映す一つの記録でもあります。

派手な経歴で語られる人物ではありませんが、杉本鉞子が残した著作は、今も当時の日本を伝える貴重な資料として読み継がれています。

参考文献

多田建次『学び舎の誕生―近世日本の学習諸相』玉川大学出版部、1992年 杉本鉞子著、大岩美代訳『武士の娘』筑摩書房、1994年 多田建次『海を渡ったサムライの娘 杉本鉞子』玉川大学出版部、2003年

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「着物姿でアメリカ名門大学へ…『武士の娘』で世界に日本を伝えた杉本鉞子の波乱の生涯【後編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、武士の娘杉本鉞子武士明治時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る