清須会議で秀吉の“天下取り確定”は間違い!三法師を抱えた織田信孝と「ポスト信長」をめぐる権力闘争 (2/4ページ)
一方で秀吉は山城を得て山崎に新しい城を築き、京都の支配に乗り出していました。
信孝が三法師を抱え、秀吉が京都へ勢力を伸ばすという構図は、利害が自然にぶつかる状況を生みます。
秀吉は安土城の修築を急がせ、三法師を早く安土へ移そうとしましたが、信孝はこれを拒みました。
秀吉の動きを主導権を奪う行為と見た信孝は反発し、柴田勝家もこれに寄り添います。反秀吉の軸がここで形づくられていきました。
葬儀と深まる溝十月、秀吉が主導して京都で信長の葬儀を行ったことが、対立を決定的にしました。
喪主は秀吉の養子である秀勝が務め、丹羽や池田らは代理を送りましたが、勝家と信孝は反発して不参加を選びます。
葬儀は秀吉が織田家中で発言力を高める場として機能したと考えられますが、同時に反秀吉勢力の不信を強める結果にもなりました。