清須会議で秀吉の“天下取り確定”は間違い!三法師を抱えた織田信孝と「ポスト信長」をめぐる権力闘争 (3/4ページ)
葬儀後、信孝は和解を試みましたが、秀吉は書状で自らの忠義を強調し、柴田勝家を「織田体制」から排除すべき存在として扱う姿勢を示します。
丹羽や池田を味方につけた秀吉は、家中での優位を固める方向へ動き始めました。
信孝が三法師の安土移動を拒んだことも、秀吉にとっては清須会議の決定に反する行為と映り、対立はさらに深まります。
勝家や滝川らは自分たちが排除されつつあると感じ、信雄と秀吉に対抗する姿勢を固めていきました。
曲折ののちの天下人天正十一年、秀吉と勝家の決戦である賤ヶ岳の戦いが起こり、秀吉は機動力と調略で勝利します。
賤ヶ岳の戦いの錦絵『賤ヶ嶽大合戦の図』(Wikipediaより)
勝家は自害し、続いて信雄は信孝を討ち、信孝も切腹に追い込まれました。