豊臣秀吉の高松城水攻め“巨大堤防”伝説は本当か?3キロ堤防の裏にあった合理的すぎる戦略【豊臣兄弟!】
「巨大堤防」の真相
豊臣秀吉による高松城の水攻めは、彼が十二日で長さ二・八キロの堤防を築き、城を湖に沈めたという壮大なイメージが広く知られています。
今でも戦国時代最大クラスの奇策であり、日本三大水攻めのひとつとして紹介されますね。
東京都立中央図書館所蔵『赤松之城水責之図』(Wikipediaより)
しかし、この巨大堤防の話には疑問が多いのです。特に史料として有名な『川角太閤記』は秀吉を英雄化する傾向が強く、もともと規模を誇張した可能性が指摘されています。
そもそもの話として、当時の技術で三キロの堤防を十二日で築くのは現実的ではありません。だからこそ伝説的なストーリーになったとも言えるのですが、ではあくまでも「現実的」に考えるならどうでしょうか。
実際の高松城はどんな場所だったのかというと、城は三方を山に囲まれ、南側には自然堤防が連なる湿地帯がありました。
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讃岐国の海に浮かぶ城!?三大水城のひとつ「高松城」の歴史と現況を解説そこは雨水が溜まりやすく、梅雨の時期には周囲が水浸しになる地形だったのです。つまり、最初から城そのものが水攻めに向いている場所だったと言えます。
近年の研究では、この城を攻めるのに必要な堤防は三キロではなく三百メートルほどで十分だったとされています。
三百メートルと言えば山手線十一両分ほどの長さで、これなら当時の技術でも十分に可能な規模でした。巨大堤防のイメージは後世の創作で、実際には地形を巧みに利用した合理的な作戦だった可能性が高いのです。
狙いは水没ではないところで、それでは秀吉はなぜ水攻めを選んだのでしょうか。
籠城する側は清水宗治率いる三千人、対する秀吉軍は宇喜多氏の援軍を含め二万五千人でした。数字を見ただけでも分かる通り兵力差は圧倒的で、正攻法でも勝てたはずです。
それでも秀吉は迂遠な水攻めを選びました。
その理由は、彼が毛利氏の主力を誘い出すためだったと考えられます。高松城を攻囲すれば、毛利軍は救援に動かざるを得ません。そこへ信長の援軍が合流すれば、一気に主力決戦に持ち込めるという考えだったのでしょう。
この戦略は『信長公記』の記述とも矛盾しません。秀吉は鳥取城を落とした後で姫路城に戻り、次の標的として高松城を選びました。
毛利氏の防衛線を突破するには、宗治の高松城を無視することはできなかったのです。
ここで湿地帯という地形を逆手に取るという考え方は、秀吉らしい柔軟な発想でした。
地形を読む力、短期間で工事を実行する組織力、敵の心理を読む洞察力――これらが水攻めという形で結実したのでしょう。
コストは最小限高松城水攻めは、講談や軍記物によって奇跡の大工事として語られてきました。しかし、近年の歴史地理学の研究は、このイメージを大きく塗り替えています。
城の南側には「水通し(水越し)」と呼ばれる幅三百メートルの狭い排水路があり、実際にはここを堰き止めるだけで水攻めに必要な水量が確保できたのです。
つまり、秀吉が行ったのは城を湖に沈める巨大工事ではなく、単に排水路を塞ぐだけの合理的な操作でした。
彼は湿地帯という地形的な弱点を突き、最小限の工事(コスト)で最大の効果を得るという戦略を苦組み立てたのです。
そして、ご存じの通り、水攻めの最中に起きたのが本能寺の変でした。秀吉と毛利軍がにらみ合う中、六月二日の急報が戦局を一変させたのです。
ここから秀吉の中国大返しが始まり、彼は一気に天下人への道を駆け上がっていきます。
高松城水攻めは、秀吉の戦略眼と実行力が最も鮮やかに現れた場面であり、同時に彼の人生を決定的に動かした転機でもありました。
参考資料:
呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』2025年、幻冬舎新書
中公ムック『歴史と人物24 豊臣秀吉と秀長 完全ガイド』2025年、中央公論新社
TJ MOOK『歴史アドベンチャー 豊臣秀長 天下統一を成し遂げた兄弟の軌跡』2025年、宝島社
MSムック『豊臣秀長と秀吉 戦国乱世と天下統一への道』2025年、株式会社メディアソフト
画像:PhotoAC,Wikipedia
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