朝ドラ『風、薫る』従兄の西郷隆盛と戦う運命に…実在した人物、大山巌(高嶋政宏)の激動の生涯
朝ドラ『風、薫る』学問を武器に!日本初の看護婦学校を作った実在人物、大山巌(高嶋政宏)の激動の生涯
朝ドラ「風、薫る」には魅力的な人物が数多く登場します。大山巌もその1人です。
ドラマでは、高嶋政宏さんが演じる大山巌(おおやま・いわお)は、大山捨松の夫であり、当時の陸軍卿、のちの初代陸軍大臣として紹介されています。
大山巌は、薩摩藩士の家に生まれ、西郷隆盛の従弟にあたる人物です。若いころから砲術を学び、戦場で経験を重ねながら、新しい軍事知識を身につけていきました。
しかし、時代の大きな転換によって世情は一変します。幕末の動乱、明治維新、そして西南戦争。大山は、新時代の陸軍を担う道を選びますが、その歩みは決して平穏ではありませんでした。
とくに西南戦争では、敬愛していた従兄の西郷隆盛と敵味方に分かれることになります。新しい国家を支える立場に立つということは、過去の縁や情を断ち切る苦しみも伴いました。
大山巌は何を思い、何を考え、どのような時代を生きたのでしょうか。大山巌の生涯について見ていきましょう。
※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。
薩摩藩士の家に生まれた西郷隆盛の従弟天保13(1842)年10月10日、大山巌は、薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士の大山彦八と競子の子として生を受けました。幼名は岩次郎、弥助と称します。
大山家は薩摩藩士の家でした。巌自身も、薩摩の郷中教育という藩士の子弟同士の繋がりの中で育ったようです。
従弟には、西郷吉之助(隆盛)がおり、すでに幼少期から人脈があったと思われます。
嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。日本では尊王攘夷運動がまきおこります。
若い巌は、藩の同志とともにこれに呼応。文久2(1862)年の寺田屋事件にも関わり、これに連座する形で謹慎を命じられています。
まだ新しい時代の行方が見えないなか、血気盛んな青年として動乱の空気を吸っていたのでしょう。
翌文久3(1863)年、巌は薩英戦争に参加。この戦いで、イギリス軍艦の新式大砲の威力を目の当たりにしました。
旧式軍備の限界を悟った巌は、戦後に藩命を受けて江戸に出府。江川太郎左衛門の流れを組む江川塾で西洋砲術を学び始めます。
近代砲術を学んだ巌は、これを契機として軍人として頭角を表すこととなるのです。
戊辰戦争で戦場を知った大山巌
慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いを契機として、明治新政府と旧幕府との間で戊辰戦争が勃発。巌は薩摩の二番隊砲兵隊長として出征しています。
大河ドラマ「八重の桜」でも描かれましたが、巌は関東から東北地方まで転戦。会津若松城攻撃にも加わりました。
その際、新島八重(当時は川崎八重)が巌を狙撃。撃たれた傷は命を落としかねないほどの重傷でした。
戦後、実戦経験を踏んだ巌は歩みを止めません。
明治2(1869)年、自ら設計した長四斤山砲(通称・弥助砲)を考案。これは我が国初となる国産の洋式大砲でした。
翌明治3(1870)年、巌は軍事視察のためにフランスへ渡ります。
このとき、ヨーロッパでは普仏戦争が起こっており、巌はその戦況を実地に見ていました。
明治4(1871)年には日本に帰国。兵部権大丞、陸軍大佐と進み、さらに陸軍少将へ進みます。
その後、再びヨーロッパへ渡り、主にフランスで軍政や砲術を研究しました。
明治7(1874)年に帰国した巌は、陸軍少将として陸軍建設に関わります。
当時の日本において、西洋式軍制を理解した人材は限られていました。巌の経験は、新しい陸軍を形づくるうえで大きな意味を持ちました。
新島八重。会津戦争の際に巌を狙撃して重傷を追わせたと伝わる。
西南戦争勃発!別れと出会いの先に、巌が見たものは?やがて巌の人生に大きな試練が訪れます。
明治10(1877)年、西南戦争が起こりました。政府に不満を抱いた士族たちが、西郷隆盛を中心に挙兵した戦いです。
このとき巌は、政府軍の別働第一旅団司令長官として出征。 西郷やそれに従う旧藩士たちは、巌にとって近しい人々でした。
この戦争は、大山にとって単なる軍事作戦ではありませんでした。
新政府の軍人としての責任と、薩摩に生まれた者としての情。その二つの間で、大山は厳しい立場に立たされたのです。
結局、西南戦争は西郷の自決によって終結。巌は近代軍人として苦い経験をすることとなったのです。
明治13(1880)年、巌は陸軍卿を拝命。やがて参謀本部次長、陸軍大臣などを歴任し、明治陸軍の中枢に立つ人物となります。
明治18(1885)年に内閣制度が始まると、巌は第1次伊藤博文内閣以降、複数の内閣で陸軍大臣を務めました。
また、朝ドラ「風、薫る」との関係で重要なのが、大山捨松との結婚です。
捨松は会津藩家老の家に生まれ、日本初期の女子留学生の一人としてアメリカに学びました。帰国後、当時の陸軍卿だった巌と結婚し、鹿鳴館の華とも呼ばれる存在になります。
薩摩出身の大山と、会津出身の捨松。戊辰戦争で敵味方となった土地の出身者同士が夫婦となったことは、明治という時代の不思議なめぐり合わせを感じさせます。
大山捨松。会津藩藩士の家に生まれたが、薩摩出身の巌と結ばれた。
日清戦争・日露戦争で日本陸軍を率いる巌の立場は、陸軍という立場を越え、日本国の行く末に関わるものとなっていきます。
明治27(1894)年、日清戦争が勃発。巌は第2軍司令官として出征し、旅順口、蓋平、威海衛などの作戦で功績を挙げたとされます。
明治31(1898)年、巌は陸軍元帥を拝命。翌明治32(1899)年には参謀総長に就任して、明治国家の軍事面で、最上層に位置する人物となっていきました。
明治37(1904)年、日露戦争が始まると、巌は満洲軍総司令官に任ぜられます。児玉源太郎を総参謀長に迎え、前線の大軍を統率する役割でした。
この時期の巌は、細かな作戦をすべて自分で動かすというより、優れた部下に力を発揮させる大きな器の指揮官として語られることがあります。
後世、巌をして「理想的将帥像」の一つとして見られることもありました。
日露戦争の勝利に貢献した巌は、やがて政府内においても中心的な立場となります。
明治40(1907)年、巌は公爵に陞爵。爵位でいえば、旧藩主と並ぶ最上位にあたるものでした。
大正3(1914)年からは内大臣を務め、天皇の側近としても重い立場を務めています。
巌は元老として遇されましたが、政治的野心が強い人物ではなかったとも評されています。
軍人としての経歴はきわめて大きい一方で、晩年の姿には、表に出て権力を振るうよりも、静かに国家の中枢を支える印象があります。
大正5(1916)年12月10日、巌は世を去りました。享年75。幕末、明治、大正という激動の三つの時代を生きた生涯でした。
大山巌の生涯は、幕末の武士が近代国家の軍人へと姿を変えていく時代そのものを映しています。
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