『豊臣兄弟!』で描かれる「安土饗応」事件が本能寺の変の引き金か?史実では何が起きていた
天正8年(1580/9年とも)、八角形の天守がそびえる織田信長の「安土城」が完成。
およそ3年〜5年ともいわれるほど時間をかけ築き上げた安土城に、徳川家康を招いた信長は、明智光秀に『饗応役(接待役)』を命じてご馳走でもてなすのですが……。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の公式予告では、「食事に毒が盛られていたことが発覚。饗応役の光秀が首謀者をかばっていると察した信長は逆上する。」とあり、光秀(要潤)が逆上した信長(小栗旬)に蹴り倒され、激しく問い詰められる動画が流れました。
これは実際に、天正10年(1582)5月、『本能寺の変』の約二週間前に起こった『安土饗応』(家康饗応)と呼ばれた事件です。
本能寺の変で光秀が謀反を起こした理由については、さまざまな説がありますが、いわゆる「もはやこれまで!堪忍袋の緒が切れた」という『積もり積もった怨恨説』では、これが最終的に謀反のトリガーとなったのでは?といわれている事件です。
家康の響宴があった・信長が光秀を響宴役に任命し外した…ということはあったようですが、理由について明確に記した史料はないそうです。
過去の大河でも登場したエピソード。どのような出来事だったのでしょうか。
「本能寺の変」のトリガーになった?家康をもてなした『安土饗応』事件。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
家康をもてなす3日間の饗応役を任命された明智光秀『兼見卿記』(光秀と親密だった神道家・吉田兼見の日記)の5月14日の条には、天正10年(1582)5月14日、武田攻めから安土城にもどった信長が明智光秀に対し、「在荘」(軍務につかなくてもよい休暇のようなもの)を命じた……とあります。
さらに「軍務から解放するから、その代わりに徳川家康が安土城に逗留している3日間は饗応役を務めよ」ということも綴られています。
実際、5月15日、家康は家臣の穴山梅雪を伴い信長のもとを訪れました。
『信長公記』では「御振舞の事、維(惟)任日向守に仰付けられ、京都・堺にて珍物を調へ……」とあり、15日には、光秀はすでに、饗応すべき料理の材料を京都や堺から取り寄せていた様子。
明確な史料はないようですが、光秀は事前に饗応役を申し付けられていて、15日にはすでに準備は整っていたのではとも、推測されています。
ところが、そんなに手際がよさそうな光秀なのに、なぜか突然饗応役を解任されてしまったといいます。
イベントの手配は得意で信長に絶賛された光秀なのに
『川角太閤記』を一部抜粋すると、
〜明智日向守所御宿に仰せつけられ候ところに、御馳走のあまりにや、肴など用意の次第御覧なさるべきために、御見舞候ところに、夏故、用意のなまざかな、殊の外、さかり申し候故、門へ御入りなされ候とひとしく、風につれ、悪しき匂ひ吹き来たり候。〜
意訳すると「光秀は接待の準備に力を入れて、料理や肴の容易を見回っていたところ、夏だったために生肴が痛んで、風に乗って強い匂いを放ってしまった。」という内容。
そして、「この悪臭は、屋敷(家康の宿泊先だった光秀の屋敷)の門まで漂い、信長はすぐに気がつき調理場に向い、これでは家康公をもてなせるわけがないと激怒。家康の宿は変更になった」そうです。
さらに、「面目を失った光秀は、食器や魚を載せた台、そのほか用意していた料理や酒肴を残らず堀へ投げ捨てさせたため、腐った魚の悪臭が安土の町中へ吹き散らされた」とのこと。かなり、リアルな描写ではありますが。
『川角太閤記』は、羽柴秀次(秀吉の甥)の家臣に仕えたとされる川角三郎右衛門が執筆したもので、同世代の伝聞をもとに書いたもの。
比較的、信憑性が高いとされるも、執筆目的は太閤秀吉の栄光の歴史を描き出すもので、この接待役解任話も、光秀謀反をよりドラマチックに描くための創作と考えられています。
光秀は、行事の準備が得意だったようで、その細やかで配慮が行き届いた支度ぶりは信長も認め誉め讃えています。
例えば、天正9年(1581)の正月、安土城下で催された『左義長』という小正月の火祭り行事では「準備が見事、思いもよらない趣向までこらし、細やかで感心した」と信長は褒め称えています。
また、京都で行った派手な軍事パレード『京都御馬揃え』の準備を行ったときも光秀が仕切り、信長はその手腕を誉めています。参加武将は約700名、見物人は約20万人も集ったイベントを成功に導いたのですから、プロデューサー的な才能もあったのではないでしょうか。
そんな光秀が、3日間の饗応の支度で食べ物を腐らせた上に、料理も道具も堀に投げ捨てるとは考えづらいもの。ましてや、「光秀が毒を入れた(もしくは誰かに支持したなど)」としたら、一番に疑われてしまいますよね。
食事に違和感を覚えたような徳川家康だが……(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
史料によって内容が異なる「安土饗応」事件宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、この響宴については
「家康の饗応の準備について、信長はある密室において明智光秀と語っていた。
けれども、信長は元来、逆上しやすく自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質だった。
信長の好みに合わぬ要件で、明智光秀が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめて1〜2度足蹴にしたそうだ。」
というような内容が記されているのですが、これも「人々が語ったところによると」という伝聞になっています。確かなことは不明で足蹴にした理由も不明です。
もちろん、確かな一次史料の裏付けはなく、信長がこの時点で秀吉になにかしらの疑いを抱いたという確証もありません。
『信長公記』の「家康公穴山梅雪御上洛之事」では京都・堺にて珍物を調えおびただしき結構」と、「珍しい食べ物を数多く揃えていて、大変結構だった」とあります。
17日には、羽柴秀吉の援軍として、光秀・忠興・摂津衆を先陣として派遣する旨を命じ、直ちに暇をとらせたため、光秀、安土より坂本へ帰城し出陣の準備をします。
これは、家康饗応の不手際の罰としてという説と、特に不手際もなく信長が光秀に悪感情を抱くこともなかったためという説と、両方の見解に分かれているようです。
森乱に打ち据えられる明智光秀。『絵本太閤記』(上田市立上田図書館所蔵) 出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/300013959
『信長が家康の武勲を讃えた「本膳料理」』「安土町文芸の郷振興事業団」による「安土天主信長の館」では『信長が家康の武勲を讃えた「本膳料理」』展示があります。(公式HPより)
〜1582年(天正10年)5月、織田信長が明智光秀に饗応(接待役)を命じ、武田勝頼討伐に功をなした徳川家康や穴山梅雪を安土城にもてなした時の饗応メニューを展示(※館内での展示は、五月十五日の「おちつき膳」「晩御膳」のみ)〜
と説明があり、膳の演出は、
「当時のおもてなしは料理が一度に並べられるので、配膳される際の華やかさが強調されました。さらに膳の演出として様々な飾りをします。」とのこと。
料理を盛る皿の下の台を金や銀で塗り、絵をほどこし、料理にさされた串「亀足(きそく)」にも金色がほどこされ、盛りつけた料理がこぼれることを防ぐ「甲立(かわたて)」は金箔の紙を皿に敷くという豪華なもの。
また、「から花」という造花を用いて華やかさを演出しています。
これらの飾りは、中世の様式を踏襲した「本膳料理」の特徴だそうです。
また、食材は『三鳥五魚』。
三鳥はツル・キジ・ガンのことですが、そのほかにも多くの野鳥・水鳥が用いられていたようです。
五魚はコイ・タイ・スズキ・カレイ・フカのことで、中世の料理書『四條流庖丁書』ではコイはワサビ酢、タイはショウガ酢、スズキならタデ酢など魚の種類により使う調味料まで規定されていたそうです。
これだけの食材はもちろん、使用する膳や器の準備まで全て準備するのは、交通機関は現代のように交通機関が発達していなかった戦国時代、かなり大変だったでしょう。
この「安土天主信長の館」での説明には「支度が行き過ぎだ」と叱責されたという記述もあるそうです。
「豊臣兄弟!」ではこれが本能寺につながっていく?
「鯛が腐っていて光秀の不手際に信長が激怒した」「信長が自分の鯛のほうが大きかったので家康のと取り替えたら、家康が毒が入っていると言いだし、信長が命を狙われているとわかり激怒した」「響宴の食事が贅沢過ぎたと怒られた」などいろいろな説がある『安土饗応』。
ただ、この響宴の不手際で信長が激怒して足蹴にされたことで光秀が本能寺の変を起こしたかどうかは不明です。
『左義長』でも『京都御馬揃え』でも、きめ細やかで思いもよらない趣向も施した見事な準備を行い、両方とも信長に絶賛された光秀。
初歩的なミスをするとは思えず、毒殺だとしてもまっさきに疑われるようなことをするとは考えづらいもの。全面に任せた挙句、贅沢に準備し過ぎて注意した……くらいのことだったのかも、とも感じました。けれど、精神的に追い詰められているときは、何が爆発のきっかけになるかはわからないものです。
ただ、いずれにしても全面的に丸投げされる企画には、光秀は毎回「胃の痛い思い」をしたのではないでしょうか。
「豊臣兄弟!」では、『可討取信長候也』(信長を討て)という足利義昭(尾上右近)の手紙は、信長の甥・織田信澄(緒形敦)が捏造したもので、信澄は「父の恨みを忘れていない」ということが判明しました。
振り回されて衝撃を受けていた光秀。「毒入りを疑われ光秀は足蹴にされる」ことは、精神状態にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
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「文芸の郷」HP 安土城天主信長の館「信長の家康饗応膳」
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