【豊臣兄弟!】秀吉に“見捨てられた養子”池田長吉とは?養子の座を追われるも関ヶ原で返り咲いた波乱の生涯 (2/3ページ)
こうした格差から、当時すでに長吉は秀吉との養子縁組を解消され、池田家に戻っていたものと考えられます。
そして天正15年(1587年)に嫡男の池田長幸(ながゆき。備中守)が誕生していますが、その生母は伊木忠次女(いぎ ただつぐ娘)でした。
伊木忠次は池田家の家老であり、もし長吉が秀吉の養子であり続けていたなら、もっと家格の高い女性を娶(めあ)せたことでしょう。
そして長吉は慶長19年(1614年)9月24日に45歳で生涯を終えたのでした。
文武両道の名将だった
このように秀吉の都合で振り回された生涯でしたが、長吉自身もただ翻弄されるばかりではなく、戦国乱世をたくましく生き抜いたようです。
長吉は実父と実兄を喪った小牧・長久手の戦いで初陣を飾ったのをはじめ、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐などに参陣しました。
さらに文禄元年(1592年)の第一次朝鮮征伐(文禄の役)において、秀吉の警護や舟奉行として功績を上げます。
また京都方広寺の大仏造営や伏見城の普請にも尽力し、実務方面でも才能を発揮しました。
慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、豊臣秀頼が跡を継ぐと徳川家康(松下洸平)に接近します。
そして慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起きると、家康率いる東軍に加勢して次兄の池田輝政(てるまさ)と共に武功を立てました。