【豊臣兄弟!】本能寺で信長に一番槍!森蘭丸を討ち取った武将・安田作兵衛の壮絶な生涯
本能寺の変(天正10・1582年6月2日)で織田信長に一番槍をつけ、小姓の森蘭丸(森乱)を倒したことで知られる安田作兵衛(やすだ さくべゑ)こと安田国継(くにつぐ)とは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は作兵衛の生涯をたどってみたいと思います。
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『美濃国諸家系譜』によると、作兵衛は天文13年(1541年)に美濃国安田村(岐阜県海津市)で誕生しました。
父親は山岸勘ヶ由左衛門貞秀(やまぎし かげゆざゑもんさだひで)、母親は寺沢広正女(てらざわ ひろまさ娘)。幼名は岩福(いわふく)または乙千代(おとちよ)と名づけられています。
永禄元年(1558年)ごろに安田利国(としくに)の婿養子となり、家督を継ぎました。
やがて作兵衛は身の丈6尺2寸(約188cm)の偉丈夫に成長します。怪力を誇り、また早業飛行(はやわざひぎょう)と呼ばれる素早い身のこなしで知られたそうです。
そんな作兵衛は永禄11年(1568年)に明智光秀に仕え、順調に立身出世。近江国高島郡田中(滋賀県高島市)に一万石の所領を与えられました。
また光秀の信任厚かった作兵衛は、明智の三羽烏(さんばがらす)に数えられたと言います。
【明智の三羽烏】
古川九兵衛兼友(ふるかわ きゅうべゑかねとも) 箕浦大蔵丞豊茂(みのうら おおくらのじょうとよしげ) 安田作兵衛国継彼らはいずれも武勇をもって知られ、本能寺の変でも先鋒を務めました。
一番槍の大手柄
本能寺の変における作兵衛の活躍について、『翁草』ではこのように記述しています。
……本能寺にて、信長公ご生害の時、堀重門より御座の間の大庭へ乱入候は明智が家士箕浦大蔵丞、古川九兵衛、安田作兵衛なり、信長公は白き単衣を召し、初めは弓にて防ぎ玉ひしが、弦切れたる故、槍を召さるに、地紅の帷子着たる年二十七、八計りの女中、十文字の槍の鞘をはづし持ち来る、夫(それ)をお取り有りて広庭へ飛び降り給ひ、三人の者と槍にて暫く追い合ひ、そこを引き取り、座敷へ入らせ給ふに、未だ座敷に燭台消え残り、その燈の光に信長公の影、障子に移り(映り)けるを、安田作兵衛穂長の槍にて、障子越しに突く、その槍信長公の右の脇腹を刺して深疵なれば、叶はせられず、寝殿に入りて自害し玉ふ……
【意訳】本能寺の変に際して、真っ先に乱入してきたのは箕浦・古川・安田の三羽烏である。信長は寝間着のまま、弓矢を射て応戦したが、弦が切れてしまった。「槍はないか」と呼ぶと、紅色の着物を着た27〜28歳くらいの侍女が十文字槍を持ってきたので、信長はそれを取って庭へ飛び出す。しばらく三人相手に戦ったが、やがて信長は座敷へ下がる。室内に消え残っていた灯りが信長の影を障子に映したため、作兵衛が障子越しに槍を突き出す。槍は信長の右脇腹に深く刺さったため、信長は「もはやこれまで」と奥の間へ入って自害する。
また『美濃国諸家系譜』では信長への一番槍に加え、森蘭丸(成利)も討ち取ったことが記されています。
しかし敵もさるもの、作兵衛は森蘭丸の十文字槍で下腹部を突かれて負傷しました。
それでも致命傷にはならなかったようで、作兵衛は信長への一番槍、そして森蘭丸を討ち取った武功が認められたのです。
信長の祟りで発狂?
本能寺の変で信長を取り逃がした作兵衛。楊洲周延「織田信長 安田作兵衛」
しかし光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、落ち武者狩りで生命を落とすと、作兵衛は牢人となりました。
天野源右衛門(あまの げんゑもん)と改名した作兵衛は、羽柴秀勝(秀吉の養子)・羽柴秀長(小一郎)・蒲生氏郷(がもう うじさと)に仕えます。
しかしどの家でも上手く行かなかったようで、各地を転々と渡り歩くことになりました。武辺者ゆえに人付き合いは苦手だったのかもしれません。
さらに立花宗茂(たちばな むねしげ)や、従兄弟の寺沢広高(てらざわ ひろたか)に仕え、九州征伐や朝鮮征伐(文禄・慶長の役)で武功を立てています。晩年は平野と改姓し、寺沢家臣として生涯に幕を下ろしました。
作兵衛の没年については諸説あるそうで、『翁草』では慶長2年(1597年)6月2日、信長の祟りで発狂・自害したと言います(厳密には顔面の腫瘍を苦にしての自害)。本能寺の変からちょうど15年後だったので、人々がそう噂したのでしょう。
一方『美濃国諸家系譜』では、光秀の17回忌となる慶長3年(1598年)6月14日に追腹を切った(光秀に殉じた)と伝わります。
後者の方がまだ幸せと言えそうですが、いずれにしても天寿をまっとうできなかったことには変わりません。
作兵衛には安田光慶(みつよし/こうぎょう。安田検校)という息子や、天野作兵衛貞能(さだよし)という孫がいて、その家名を後世へ受け継いだそうです。
終わりに
蘭丸との死闘。歌川国芳「六様性國芳自慢 仏滅 保里蘭丸 安田作兵衛」
生没:天文13年(1541年)生~慶長2年(1597年)または慶長3年(1598年)没 出身:美濃国安田村(岐阜県海津市) 両親:山岸勘ヶ由左衛門貞秀/寺沢広正女 養家:安田利国 改名:岩福・乙千代→安田作兵衛国継→天野源右衛門→平野源右衛門 主君:明智光秀→羽柴秀勝→羽柴秀長→蒲生氏郷→立花宗茂→寺沢広高 異名:明智の三羽烏(ほか古川兼友・箕浦豊茂) 所領:1万石(近江国高島郡田中・滋賀県高島市) 子孫:安田光慶(子)・天野作兵衛貞能(孫) 死因:自害(信長の祟り?光秀に殉死?)今回は本能寺の変で活躍した安田作兵衛こと安田国継について、その生涯をたどってきました。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では割愛されてしまいましたが、森蘭丸との一騎討なども観てみたかったですね。
法名は善要智仙人禅定門(ぜんようちせんにんぜんじょうもん)、墓所は浄泰寺(佐賀県唐津市)にあり、今は安らかに眠っています。
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『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る※参考文献:
川口素生『織田信長101の謎 知られざる私生活から、「本能寺の変」の真実まで』PHP研究所、2005年8月 高柳光寿ら『増訂 戦国人名辞典』吉川弘文館、1973年7月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
