なぜ皇室典範に「譲位」はなかったのか?上皇陛下の生前退位で浮かび上がった明治政府の思惑
7月17日、「皇室典範改正案」が参議院で可決された。
今回の改正は、減少する皇族数の確保を目的とするもので、「女性皇族が結婚後も皇族の身分を維持できるようにすること」と、「旧宮家出身の男系男子を養子縁組によって皇族とすること」の2案が柱となっている。
一方で、皇位継承資格を男系男子に限るという現行の原則は維持され、女性天皇や女系天皇を認める制度改正は盛り込まれれず、事実上、女性天皇の即位は否定されたものとなった。
各種世論調査では、女性天皇を容認する意見が7割前後を占めるものもあり、今回の決定については、国民の声が十分反映されていないとの指摘も見られる。
では、そもそも現行の皇室典範には、なぜ天皇自身の意思による譲位の規定が設けられていないのだろうか。本稿では、皇室典範制定時の経緯をたどりながら、その背景をひも解いていきたい。
上皇陛下の生前退位が投げかけたものとはいまから10年前の2016年(平成28年)7月13日、皇室関連のニュースが各種メディアを賑わせた。
それは、第125代明仁(あきひと)天皇[現在の上皇陛下]が、生前に皇位を皇太子の浩宮徳仁(ひろのみやなるひと)親王[現在の天皇陛下]へ譲りたいという意向、すなわち「生前退位」の考えを宮内庁関係者に示していたというものだった。
当時、明仁天皇は82歳であられた。天皇は、69歳で前立腺がん、78歳では心臓の冠動脈バイパス手術を受けられている。
このようなご病気を抱えながら、激務ともいえる公務に精力的・真摯に取り組まれていた。しかし、次第に体力の衰えを自覚され、それが生前退位のご意向に繋がったとされる。
ただ、天皇がどんなにご希望されても、生前退位は簡単には認められない。
なぜなら1889年(明治22年)に規定された『皇室典範』には、譲位規定が盛り込まれなかったこと、さらに戦後に制定された現行の『皇室典範』においても同様に天皇の譲位が規定されていなかったことが原因だった。
こうしたなか、2016年(平成28年)8月8日、明仁天皇は「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」をビデオメッセージにて公表された。
それは高齢により、象徴としての務めを全身全霊で果たし続けることが難しくなりつつあるという思いを述べ、国民に理解を求めるものであった。
これを受け、2017年(平成29年)6月9日の参議院本会議において、『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』が可決・成立し、同月16日に公布された。そして、2019年(平成31年)4月30日に同法が施行され、天皇の地位とその職務は皇太子徳仁親王へと引き継がれたのである。
明仁天皇が譲位の意向を示されてから、生前退位が実現するまで約3年もの時間がかかったことになる。そして同法は特例法であるため、一代限りのみの適用である。これほど現行皇室典範においては、皇族はもちろん、天皇でさえ、自由な意向を持つことが許されないのである。
なぜ皇室典範に「譲位」は存在しなかったのか現上皇陛下(明仁天皇)の円滑な生前退位を阻む要因ともなった『皇室典範』に、なぜ譲位の規定が盛り込まれなかったのか。
そこには皇室典範の規定を主導した、明治の元勲・伊藤博文の思惑が関係していたのである。
伊藤はその理由について、1889年(明治22年)に刊行された『皇室典範義解』の中で「権臣の強迫により両統互立を例とするに至る。しかして南北朝の乱またここに源因せり。(権力を持つ臣下による圧力や介入によって皇位継承が乱れ、結果として南北朝の争乱を招いたのである)」と述べている。
つまり伊藤は、天皇が自ら譲位の意思を示すことが可能になると、周囲の政治勢力(権臣)がこれを乱用し、皇位継承に不当な影響をおよぼす危険性があるとしたのである。
王政復古と「天皇一世一元」の理念そしてもう一つ、皇室典範に譲位の規定がない理由がある。それは明治政府が打ち出した「王政復古」と大きく関係していた。
これは、明治新政府が掲げた政治理念で、初代天皇の神武天皇の時代を理想としたものである。つまり「王政復古」とは、日本の歴史上で皇位の譲位が頻繁に行われるようになる以前の「天皇一世一元」のあり方へと立ち返ることを意味したのである。
そのため、制定された『皇室典範』には「天皇崩ずるときは、皇嗣すなわち践祚し、祖宗の神器を承く」と記され、天皇が即位する条件は、前の天皇が崩御することであると明確に定められたのである。
譲位を認めなかった明治政府の真意とはこのような『皇室典範』の規定を読者の皆さんは、どのように感じられるだろうか。
邪(よこしま)な考えを持つ権臣からの介入を防ぐため?皇位の正統性を保持するため?など、一見すると天皇家の皇統の安定を願ってのもののように思われる。
しかし、その真意は全く別のところにあった。
それは伊藤をはじめとする明治新政府の首脳たちが、「天皇が自ら譲位の意思を示すこと」を極めて警戒していた点にある。言い換えれば、「天皇が自らの意思を明確に示す」という行為こそ、彼らが最も恐れたものであったのだ。
大日本帝国憲法における天皇は、「国家の元首」として「統治権を総攬(そうらん)し、神聖にして侵すべからざる存在」とされた。また、戦後の日本国憲法では、天皇は「日本国の象徴」にして「日本国民統合の象徴」と規定された。
しかし日本の歴史を俯瞰すると、時の為政者が天皇の主体的な意思を抑え、自らに都合の良い「天皇像」を作りあげた時代は少なくない。いや、天皇が自ら政治的意思を発揮できた時代は、決して多くなかった。
岩倉使節団。木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通(Wikipedia)
そしてその姿が最も顕著に現れたのが、実は「天皇一世一元」制を確立した明治新政府であるといえよう。
その背景には、明治新政府の権力構造があった。伊藤をはじめ明治政府を主導した人々は、もともと低い家格から成り上がった人物が多かった。
幕末期、彼らは薩摩・佐賀・土佐などの有力大名のもと、その手足として動く立場にあった。したがって、新政府が成立した段階では、本来なら天皇を頂点とし、その下に有力大名や公家が要職を占める構造になるはずであったのだ。
しかしいざ新政府が始動すると、中央集権体制の確立を目指す「版籍奉還・廃藩置県」によって、旧藩主との主従関係が断ち切られ、その力関係は大きく変容した。
そのとき新たに「盟主」として仰がれたのが天皇である。ただし、それはあくまでも政治的象徴=彼らが言うところの「玉」としてであった。
明治維新の指導者たちにとって、天皇は新政府の正統性を示し、国家統合を進める上で欠かせない存在であった。そのため、天皇を政治権力の象徴として位置づける制度設計が進められたのである。こうした考え方のもと、天皇自身の意思による譲位制度は、皇室典範には盛り込まれなかったのである。
皇室典範に譲位規定が設けられなかった背景には、伊藤博文ら明治政府の制度設計が色濃く反映されていた。その思想は戦後に制定された現行皇室典範にも引き継がれていくことになる。
もし、多くの国民が心から天皇制と皇室の安泰を願うのであれば、今後において『皇室典範』がどのように再構築されていくのか、注意深く見守っていかなければならないだろう。
※参考文献
笠原英彦著 『皇室典範―明治の起草の攻防から現代の皇位継承問題まで』 中公新書刊
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