30年間、小さな庭を見つめ続けた画家・熊谷守一 ──名誉より「自分らしい暮らし」を選んだ理由【後編】
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熊谷守一
前編では、熊谷守一が画家を志し、数々の苦難を乗り越えてきた人生をご紹介しました。
【前編】の記事はこちら↓
「30年間、小さな庭を見つめ続けた画家」熊谷守一 ──“画壇の仙人”になるまでの波乱の人生【前編】晩年の熊谷守一は、東京都豊島区の自宅で過ごす時間が増えます。そして、その庭から生まれた作品によって、「画壇の仙人」と呼ばれる存在になっていきました。
庭が、熊谷守一にとっての世界だった1956(昭和31)年、76歳の熊谷守一は軽い脳卒中を患います。
これを機に遠出や写生旅行はほとんど行わなくなり、自宅で過ごす日々が続きました。
「30年間、庭から出なかった画家」と紹介されることがありますが、実際には一歩も外出しなかったわけではありません。
ただ、彼の暮らしの中心が庭だったことは間違いありません。
広さはおよそ30坪。
決して広いとはいえない空間ですが、守一にとっては十分すぎるほど豊かな世界でした。
木々は季節ごとに姿を変え、草花は毎日少しずつ表情を変えます。猫が歩き、鳥が訪れ、地面では蟻が列をつくる。多くの人なら見過ごしてしまうような光景の中に、守一は尽きることのない面白さを見いだしていました。
「蟻は左の二番目の足から動かす」熊谷守一には有名な逸話があります。
庭で蟻を何時間も観察し、「蟻は左の二番目の足から動かす」と話したというものです。
池のボウフラを眺め続けたり、昼寝をする猫を静かに見守ったりすることもあったと伝えられています。
同じ庭を毎日見ていて飽きないのかと思ってしまいますが、守一にとっては毎日が新しい発見の連続でした。
小さな変化を見逃さず、じっくり向き合う。その積み重ねが、独特の作品世界を育てていったのでしょう。
「簡単そう」に見える絵ほど難しい熊谷守一の作品は、一見するととても素朴です。
猫は数本の線で描かれ、色彩もシンプル。陰影もほとんどありません。
だからこそ、「子どもでも描けそう」と感じる人もいます。
しかし、それは長年磨き続けた技術があってこそ到達できた表現でした。
写実を極めたからこそ、本当に必要な線だけを残すことができたのです。
余計なものを削り落とした画面には、猫や草花の生命感が不思議なほど自然に息づいています。
名誉より、自分らしい暮らしを選ぶ1967(昭和42)年、熊谷守一は文化勲章の受章者に選ばれました。
芸術家にとって最高の栄誉ともいえる出来事ですが、守一は辞退しています。
理由は「これ以上、人が来てくれては困る。」
さらに「礼服も作りたくない」と話したとも伝えられています。
1972年には勲三等も辞退しました。
名声や肩書きよりも、自分の生活のリズムを守ることを大切にしたのでしょう。
熊谷守一が残した言葉熊谷守一は『私の履歴書』の中で、こんな言葉を残しています。
「下品な人は下品な絵をかきなさい。ばかな人はばかな絵をかきなさい。下手な人は下手な絵をかきなさい。」
少し強い言い方ですが、人の真似をする必要はない、自分らしく生き、自分にしか描けないものを描けばいい──そんな思いが込められていたのでしょう。
97年の生涯を通して、熊谷守一は流行や評価を追いかけることなく、自分の心が動くものを描き続けました。
遠くへ旅をしなくても、身近な世界には新しい発見があります。
一本の木や一匹の猫、足元を歩く小さな蟻でさえ、じっくり見つめれば昨日とは違う表情を見せてくれます。
熊谷守一が30坪の庭で見つけたのは、特別な景色ではありませんでした。
何気ない日常の中にある豊かさです。
だからこそ、半世紀以上が過ぎた今も、その作品は多くの人の心を静かに惹きつけ続けているのかもしれません。
参考文献
藤森武 『独楽 : 熊谷守一の世界』紅書房、1986年。 長野重一・飯沢耕太郎・木下直之編『日本の写真家 9 安井仲治』、岩波書店、1999年。 田村祥蔵『仙人と呼ばれた男―画家・熊谷守一の生涯』中央公論新社、2017年。 福井淳子『いのちへのまなざし―熊谷守一評伝』求龍堂、2018年。 古川秀昭『熊谷守一 気ままに絵のみち』(ミネルヴァ日本評伝選)ミネルヴァ書房、2019年。 熊谷守一(絵)、ぱくきょんみ(文)『はじまるよ』福音館書店、2019年。日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
