【豊臣兄弟!】光秀が最後まで頼りにした武将・筒井順慶とは?「洞ヶ峠を決め込む」の由来になった波乱の生涯
豊臣兄弟!の『本物の平蜘蛛』の回において初登場した筒井順慶(つつい-じゅんけい)。彼は松永久秀と何度も戦った宿敵ともいえる武将であり、信貴山城の戦いでは最も活躍したといわれています。
また、ことわざ「洞ヶ峠を決め込む」の由来となった人物でもあります。
しかしながら、あまり知名度が高くなく、どのような人物か知らない方も多いのではないでしょうか。
今回は、順慶の生い立ちを振り返りながら、久秀との因縁やことわざの由来となった出来事を紹介します。
2歳で家督を継承
天文18年(1549)、順慶は筒井順昭の子として生まれます。筒井氏は大和国に勢力を持った大和四家の一角で、興福寺一乗院傘下の衆徒でした。
特に順慶の父である順昭の代で筒井氏の最盛期を築きますが、28歳の若さで病死。それにより、わずか2歳で順慶が筒井氏の当主となります。
この時、生前の順昭は自身と容姿が似た盲目の法師・木阿弥を影武者とし、本人の死が公表された一周忌後に恩賞を与え、影武者・木阿弥から法師・木阿弥へと戻しました。
これが「元の木阿弥」の由来とされています。
しかしながら、順昭の死は一周忌を迎える前に知れ渡っていたので、死を隠したこと自体が怪しいと言われています。
久秀との因縁はここから始まった
順慶がまだ10歳だった永禄2年(1559)から、ついに松永久秀が大和への侵攻が本格化しました。久秀の勢いは凄まじく、翌年には信貴山城への入城を許してしまいます。
そして、叔父で後見人の筒井順政が死去して間もない永禄8年(1565)に奇襲を受けてしまい、居城の筒井城を手放してしまいました。
この戦いは筒井城の戦いと呼ばれ、順慶は同じ大和国人の布施氏の城に落ち延びました。
しかし、やられっぱなしでは終わらせず、筒井城を奪還するために久秀と対立した三好三人衆と手を組みます。
奪い奪われ筒井城
翌年の永禄9年(1566)に、順慶と三好三人衆は松永軍に攻勢を仕掛け、美濃庄城を攻略します。これをきっかけに形勢が逆転し、久秀と三好三人衆が堺で和睦をしている最中、順慶は手薄になった筒井城を奪還。
こんなにあっさりと目的が達成できたのは、三好家の重臣・篠原長房の侵攻への対応に久秀が注力していたためでした。
居城を取り戻した順慶は再度三好三人衆と連合して多門山城にいる久秀と対峙します。順慶達は、永禄10年(1567)に勃発した東大寺大仏殿の戦いにて奇襲を受けたことで敗北しました。
ちなみに、この戦いの中で起こった不慮の事故が原因で大仏殿が消失しています。
それでも、翌年には信貴山城を攻略し、徐々に劣勢に追い込んでいきますが、久秀が織田信長と足利義昭に付き従ったことで戦況は一変。大和国の支配権を久秀が握ったことで、またしても筒井城を奪われてしまいました。
互いに織田家臣となる
順慶は叔父・福住順広(ふくずみ-としひろ)のもとへ落ち延び、久秀側の城の奪取や新たな城の築城を行いつつ、力を蓄えていました。
そんな中、対久秀へと方針を変えた義昭が接近してきます。義昭の助力を得た順慶は、井戸吉広に辰市城を築城させ、久秀に圧力をかけます。
元亀2年(1571)に、久秀が目の上のたん瘤になりかねない辰市城に侵攻したことで、戦いの火ぶたが切られました。辰市城の戦いと呼ばれたこの戦いは、劣勢であった筒井軍に援軍が来たことで形勢逆転。
松永家筆頭家老の竹内秀勝や柳生宗厳の長男・厳勝に重傷を負わせ、500人の兵を討ち取る大損害を与えました。
この勝利を機に順慶は筒井城に帰還し、2度目の奪還に成功しました。そして、同年に明智光秀の仲介で信長に仕えます。
同時に久秀も佐久間信盛の仲介で信長の家臣になったことで、両者は矛を収めました。
信長の親族を妻にもらう
しかし、ほどなくして久秀が信長から離反。義昭も続き、不利な状況が起こってしまいますが、順慶は信長に従いました。
槙島城の戦いを経て久秀と和議を結んだ信長に対して、天正2年(1574)に忠誠の証として母親を人質に差し出します。信長もその忠義に応えた形で翌年に自身の親族を妻として差し出しています。
この年には大和守護になった原田直政の与力に任命され、長篠の戦いにて鉄砲隊の派遣や越前一向一揆に参戦しました。
長きに渡った因縁に終止符が打たれる
天正4年(1576)に石山合戦で直政が戦死すると、光秀の与力となったと同時に大和国の支配を一任されました。
その後は天正5年(1577)の紀州征伐や信貴山城の戦い、天正7年(1579)の有岡城の戦いと言った主要な戦いに参加しています。
特に信貴山城の戦いでは土地に詳しいためか先鋒を任されています。また、順慶の家臣・森好久率いる鉄砲衆200人が、仕官先の久秀に対して反乱を起こしたことが信貴山城落城に繋がりました。
順慶はこの戦いで死亡した久秀の遺体を達磨寺で丁重に葬りました。長年いがみ合った宿敵だったからこそ、順慶なりの敬意をもって葬ったと考えられます。
約20年にわたる2人の因縁は久秀の死をもって終わりを迎え、順慶が大和国(現在の奈良県)を平定しました。
日和見順慶はこうして生まれた
そして、天正10年(1582)6月2日に起こった本能寺の変後、順慶は明智光秀と豊臣秀吉どちらにもつかずに静観を貫きます。そんな中、光秀は洞ヶ峠に布陣して順慶の動向をうかがいました。
光秀にとって順慶は織田家臣になる際に仲介した上に、どちらも教養人だったので親しい間柄でした。そのため、光秀側に味方すると考えていたのでしょう。
しかし、光秀の期待は大きく外れ、順慶が動かないまま6月13日の山崎の戦いを迎え、討ち死にしました。
この時、順慶が洞ヶ峠に布陣後、日和見をしたことから「洞ヶ峠を決め込む」のことわざが生まれたとされていますが、上記の通り光秀が布陣しています。順慶が布陣したことは『増補筒井家記』に記載がありますが、史料自体の信ぴょう性が低く、誤りの可能性が高いです。
ただ順慶が日和見だったことは確かで、戦いが終わった同年6月14日に秀吉の味方に付きました。
この遅参に対して「道理に反すること」と叱責を受けますが、お咎めはなく以後秀吉の家臣となります。
病を押して戦った末に…天正12年(1584)に起こった小牧・長久手の戦いでは、病でありながら出陣しました。順慶は戦いの前に胃痛を訴え、寝込んでいました。それでも秀吉は出陣を促したことから、順慶の病状を顧みないくらい関係性は希薄だったことがうかがえます。
無理をして戦ったことで胃痛が悪化し、回復することなく同年8月に36歳で病死しました。
跡継ぎの日和見によって領地を失う
順慶の死後、養子の定次が跡継ぎとなりますが、重臣だった島左近と折り合いがつかず、手放してしまいます。関ヶ原の戦い後には徳川派と豊臣派で内部分裂が起こり、収拾がつかない事態になってしまいます。
この前に豊臣政権下で移封の地となっていた伊賀国の支配を江戸幕府から任命され、国持大名となりました。
そんな状況の中で慶長13年(1608)に家臣が、定次の悪政や鹿狩りでの怠慢を幕府に密告したことで改易処分を下され、国持大名としての筒井氏は滅亡してしまいました。
これは筒井騒動と呼ばれており、豊臣恩顧の定次が幕府につかずに日和見な態度をとっていたことが後々の懸念になると見なされ、改易に繋がったとも言われています。
参考
金松誠『筒井順慶』(シリーズ・実像に迫る019)2019年、戎光祥出版
日本博学倶楽部『戦国武将・あの人の「その後」―「関ヶ原」「本能寺」…事件が変えた男たちの運命』2002年、PHP研究所
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