朝ドラ『風、薫る』黒川医師と“運命の再会”…りんの実在モデル・大関和が再び看護婦に戻った理由

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朝ドラ『風、薫る』黒川医師と“運命の再会”…りんの実在モデル・大関和が再び看護婦に戻った理由

NHK朝の連続テレビ小説「風、薫る」。第18週のテーマは『岐路にて』です。

岐路……人生の分かれ道。ヒロインの一ノ瀬りん(見上愛)も大家直美(上坂樹里)も、「新しい看護の道」へと続く大きな分岐点に立ったようです。

ドラマでは、二人がトレンド・ナースとして働く初の現場は、帝都医科大学附属病院(実際は、帝国大学医科大学附属第一医院/現在の東大病院)でした。

そして、病院を辞めた二人は次の新しい分岐に立ち、自分自身で選んだ「this is my life 」の道へ一歩を踏み出します。

それが、今私たちがお世話になっている「現代の看護」の始まりとなった、といっても過言ではありません。

まずは、ドラマのヒロイン一ノ瀬りんにも、りんのモデルとなった実在の人物・大関和にも訪れた分岐のきっかけ、運命の再会についてご紹介しましょう。

りんと直美。それぞれが「岐路」に立って、自分の選んだ道を進む。 (NHK「風、薫る」公式サイトより)

※ドラマの時代設定に合わせ「看護師」ではなく当時のままの「看護婦」と表記しています。
※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。

マリア・T・トゥルーの紹介で「高田女学校」に行くも…

実際、りんのモデル・大関和も、帝国大学医科大学附属第一医院を退職に追い込まれた後、キリスト教系の桜井女学校の分校・高田女学校の舎監(寄宿している学生の生活 指導や監督)として働きました。

朝ドラ『風、薫る』りんが赴任した高越女学校のモデルは実在━━新潟で待つ“運命の再会”につながる史実

けれども、舎監は和にとっては「天職」ではなかったよう……勤めた時期は1年という短い期間でした。

ドラマでは「高田女学校」は、りんの就職先を直美に頼まれた大山捨松(多部未華子)が紹介した職場でした。

実際は、「高田女学校」は、明治時代の眼科医で日本で3番目となる高田盲学校を開校した大森隆碩ら、地元の名士たちが宣教師のマリア・T・トゥルー(※)に協力を要請して設立した学校です。

※和たちが通った桜井女学校付属看護養成所(ドラマでは「梅岡女学校付属看護養成所」)を設立

大家直美のモデルである鈴木雅が、マリアに「和に再就職先を斡旋して欲しい」と頼んだのでした。

ちょうど、和が第一医院を退職した頃、桜井女学校は新栄女学校と合併して明治23年(1890)『女子学院』となり、同系列の女学校が開設されたタイミングだったのです。

姉妹校には、宇都宮女学校・スミス女学校(現在の北星学園)・前橋女学校(現在の共愛学園)などもあったそうです。(「女子学院」公式HP)

和は、雅とマリア・トゥルーの好意を受けて、高田女学校の舎監を引き受けたのでした。当時、大関和は32歳でした。

高田女学校の設立者・大森隆碩はクリスチャンで地元の廃娼運動の主導的立場だったため、和は「廃娼演説会」に女子生徒と共に参加し、讃美歌を歌ったり慈善運動に貢献したりして過ごします。

それなりに充実した日々を送っていた和。けれども、「看護婦への想い」は心の中で消えることありませんでした。

大学病院を辞め、心機一転、新潟に旅立ったりん。(NHK「風、薫る」公式サイトより)

「看護婦に戻る」という思いが膨らんだ理由

和の中にあった消えることない「看護婦への思い」が、大きく膨らんだのには理由がありました。

原案の伝記小説によると……

理由のひとつは、和が第一医院で「看護取締」を押し付けられたとき、先輩として体験談を聞くために会った慈恵病院の看護取締・松浦里子が亡くなった記事を読んだことがきっかけでした。

その訃報を、共に里子に会った雅や桜川里以(ドラマでは玉田多江/生田絵梨花)に伝え、悲しみを共有したかった和。

けれど、第一医院を辞めた雅はアメリカ留学中(実は、乗船直前にトラブルに巻き込まれ、日本で伝染病患者の看護に奔走していた)だと思っていたし、里以は麻布の聖慈病院に就職中でした。

二人とも里子から教わったことを生かして、看護婦を極める行動をしているのに、「舎監をしている自分だけ取り残されている気分」になったしまったそうです。

ドラマでは、りんは担当患者の死がトラウマになり看護に支障をきたし退職する、というストーリーになっていましたが史実は異なります。

病院で働く看護婦労働改善のため建議書を出したり、男性医師の態度に物申したりと、何かと楯突く和は、優秀だけれども、“女のくせに、たかが看護婦のくせに”と疎まれてしまったのです。

結局、和は病院から追い出されるような形で退職に追い込まれたのでした。

そんな不本意なままで「看護婦を辞めた」和。

史実では、この頃すでに、大関和の手術時の機械だしの腕や術後管理のきめ細やかさは、医療界でも評判となっていたそうです。

「病院の男性医師が看護取締を疎んじたから」などという理由で退職に追い込まれたのですから、和の「看護」への想いは絶対に消えるわけはないでしょう。

ドラマでは退職の理由は異なるものの、「看護」への思いは消えたわけではなかったりん。(NHK「風、薫る」公式サイトより)

大地震発生で全国の看護婦が救護に向かう

そんなとき、明治24年10月28日午前6時37分、岐阜県美濃地方、愛知県尾張地方を中心とした『濃尾地震』が起こりました。

震源地は本巣郡根尾谷(現本巣市根尾)。地震のエネルギーはマグニチュード8.0、世界でも最大級の内陸直下型地震だったそうです。

阪神・淡路大震災(1995年1月17日)がマグニチュード7.2、関東大震災(1923年)が同じく7.9だったそうなので、比較するといかに大規模な地震であったかが想像できます。(岐阜県公式HP)

激震地域は岐阜県の美濃地方を中心に、愛知県尾張地方・滋賀県東部・福井県南部に及んだそうです。

死者は全国で7,273人、全壊・焼失家屋142,000戸という大きな被害となりました。

濃尾地震の被害 wiki

明治24年当時、パソコンどころかテレビもラジオもない時代。大関和は、この災害を新聞で知ったのでしょうか。

原案小説によると、和は、日赤・慈恵看護婦教育所・京都看病婦学校などで学んだトレインドナースたちが、一斉にけが人や病院の救護に向かう話を知り、「今すぐにでも看護婦の一員に加わり、一人でも多くの患者を助けたい」という思いが高まったそうです。

実際、日本医史学雑誌の「明治 24 年濃尾地震における東京慈恵医院の救護・看護活動」によると、

〜東京慈恵医院による看護婦派遣数は救護団体中最も多い 20 名……近代的な看護婦を訓練した東京慈恵医院看護婦教育所の卒業生たちであった。

これらの訓練を受けたトレインドナースによる救護活動は現地にも影響を与え、震災後、岐阜県立病院の看護婦養成の契機ともなっている〜

とあります。

動画でその様子をリアルタイムに観られることはできない時代でも、新聞などで大規模災害の被害状況を聞いたら、何もかも放り出して救護に駆け付けたかったことでしょう。

ドラマのりんと同様、思ったら即行動するために突っ走る性格だった和。

きっと「やはり、看護婦の仕事に戻りたい」という思いが強くなったのだと思います。(ドラマでは、この大地震は描かれるかどうかはわかりませんが)

濃尾地震の避難所 wiki

高田での「運命の再会」が再び看護の道へ

そんな時、大関和は高田の町で、偶然にも第一医院で共に働いていた医師・瀬尾原始(ドラマでは外科助手・黒川勝治(平埜生成))と再会します。

※関連記事:

朝ドラ【風、薫る】りんの人生を動かす外科助手・黒川勝治(平埜生成)…実在モデル・瀬尾原始の実像

退職時は、「目の上のタンコブ」だった和に冷たくする男性医師が多いなか、瀬尾は最後まで態度を変えることなく接してくいたそうです。

ドラマでも、看護取締のりんとともに学生たちの講義を担当していた、黒田医師。りんの熱血教師ぶりに苦笑はしつつも、一生懸命なりんを評価していたようでしたね。

大学病院では、りんや直美と共に看護婦希望の女学生に講義を行なっていた黒川先生。(NHK「風、薫る」公式サイトより)

原案伝記小説によると、瀬尾原始は、養父が『知命堂』という医院を開業していたものの引退したので、後を継ぐことになり高田に戻ってきていました。

養父・瀬尾玄弘は元高田藩医で、明治4年に同病院を開いたのでした。

以前は平屋の医院だったのですが、解体され洋館となり『知命堂病院』の看板がかかっていました。

和は、原始に案内されるまま新築病院の内部に入ると、最新の医療設備が揃っていたとか。きっと胸はワクワクして目を輝かせながら病院内を見学したのではないでしょうか。

原始曰く、「全国から一流の医師らが赴任してくることも決まった」そうです。

病院勤務時代から、和の看護婦としての能力を高く評価していた原始は、「この病院の看護婦長になって欲しい」と頼みました。

原始は「いずれは看護婦養成所もつくりたい。医大病院時代のあなたがたの働きを見ていて専門的な教育を受けた看護婦の必要性を感じた。あなたには養成所の教員もして欲しい」。

“女のくせに、たかが看護婦のくせに”という遅れた考えは持たず、先見の明があった、原始。(さすが、黒川先生!)

「ぜひやりたい!」と思った和も、「わたしにはもったいないお話」と頭を下げその場は去りました。

けれどでも、すぐに車を拾い高田女学校に出向き「退職したい」旨を申し出たのでした。さすがは、思い立ったらすぐに行動する和らしい。

実は、和の看護婦としての能力を高く評価していたマリア・T・トゥルーは、もともと「大関さんは、急に看護婦に戻る可能性がある」と、学校側に伝えてくれていたそうです。

まさに運命的。黒川医師とりんの再会。(NHK「風、薫る」公式サイトより

知命堂病院にて看護婦長・大関和が誕生

明治24年(1891)11月29日、新潟県の高田町に新設された知命堂病院では開院式が行われて、和も祝辞の挨拶を行なっています。

また『新潟新聞』(現在の新潟日報)での知命堂病院の広告には、院長・瀬尾原始以下、内科・外科・産婦人科・眼科の医師らとともに看護婦長・大関和も紹介されたそうです。

知命堂病院公式HPでは、知命堂病院長瀬尾原始と初代看護婦長大関和を「二人の恩人」という動画で紹介しています。

ドラマの中でも、再び瀬尾原始をモデルにした黒川医師と再会したりん。一方、直美は何度も訪問看護を経験し自身の母を看取った経験から、病院を辞めて大山捨松に背中を押されて「派出看護の会」を作るようです。

まさに、この明治23頃は、和は看護婦長・雅は派出看護の道を選んで、新しい道を切り開いていきます。

今後、どうのこの運命の再会がどのように描かれていくのか楽しみですね。

関連記事:

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参考:

日本医史学雑誌の「明治 24 年濃尾地震における東京慈恵医院の救護・看護活動」

明治のナイチンゲール 大関和物語 田中ひかる

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