『豊臣兄弟!』明智光秀は生きていた?最期をぼかした演出と「光秀生存説」を史実から考察
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第29回「天下への道」では、羽柴秀吉(池松壮亮)と明智光秀(要潤)による山崎の戦いが描かれました。
敗れた光秀は秀吉に捕らえられますが、ドラマではその処刑シーンが描かれないまま物語が進みます。果たして、光秀は本当に死んだのでしょうか。
実は歴史上にも、光秀が山崎の戦いを生き延びたという伝承があります。
本稿では、『豊臣兄弟!』が残した「光秀生存説」という謎を、史実に残る伝承から考察します。
本能寺の変への決意を固める明智光秀。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK『豊臣兄弟!』公式サイトより)
明智光秀は生きていた?『豊臣兄弟!』が残した光秀生存説羽柴秀吉との決戦(山崎の戦い)を前にして、細川藤孝(亀田佳明)や筒井順慶(永沼伊久也)など、縁戚関係にある武将たちから協力を断られ、思うように兵力を集められない光秀。
一方、織田信長(小栗旬)の三男・織田信孝(結木滉星)を総大将に据えたものの、諸将の意見がちぐはぐで、足並みが揃わない羽柴勢。
坂本城への脱出途中で捕らえられた明智光秀。(NHK『豊臣兄弟!』公式サイトより)
光秀はそこに勝機を見出しますが、過熱する諸将を抑えた秀吉の機略によって阻まれます。
そして、自軍の倍以上となる4万を超える羽柴勢に敗北。居城の一つである坂本城で再起を図ろうと戦場を脱出するも、黒田官兵衛(倉悠貴)の策によって、生け捕られてしまいます。
捕らえられた光秀は、秀吉が茶を点てながら待つ寺の仏間へ連行され、秀吉との問答が始まるのでした。
仏間で最後の問答を行う羽柴秀吉と明智光秀。(NHK『豊臣兄弟!』公式サイトより)
このシーンには、信長家臣団の実質的なトップ2ともいえる二人による、生死をめぐる底知れぬ緊張感がありました。
「手の込んだまねごとをせずに、さっさと首を刎ねろ」という光秀。
一方の秀吉は、「教えてほしい。なぜ上様を討ったのか。やはり信澄様と手を結んでいたのか」と問いかけます。
この問いは、自分が織田信澄(緒形敦)を庇ったばかりに、それが織田信長の滅亡につながったのではないかという秀吉の恐れから出た言葉でした。
光秀は、「此度のことは、自分一人で決めたことで、おまえなどには関わりなきことだ。思い上がるな。信長を討ったのはこの光秀だ」と、秀吉の疑念を完全に否定します。
そして光秀は、「信長の世ではなく、足利義昭様の世を見たかった」と言い切り、「悔いてはいない。存分に恨みを晴らすがよい」と、静かに秀吉へ語るのでした。
その後、仏間から出てきた秀吉は、「明智殿の首は百姓の落ち武者狩りに遭い、我らに届けられたことにする」と、福島正則(松崎優輝)、加藤清正(伊藤絃)に告げるのです。
そこには、光秀の処刑シーンは描かれていませんでした。つまり、明智光秀の最期は明確に描かれず、そこから「光秀は生存したのでは?」という視聴者の声が相次いだのです。
光秀生存説の代表格「天海=明智光秀」説さて、光秀生存説に含みを持たせる形で終わった『豊臣兄弟!』第29回「天下への道」。歴史好きの方ならば、光秀は山崎の戦いを生き延びたという伝承をご存じの方も多いはずです。
そのなかでも有名なのが、徳川家康(松下洸平)のブレーンの一人である「天海上人説」でしょう。
南光坊天海は、川越の喜多院の住持を務めたのち、家康に重用され、後に「黒衣の宰相」とまで呼ばれた僧侶です。しかし、その出自や前半生には不明な点も多く、謎の多い人物でもありました。
光秀と同一人物との伝承がある南光坊天海(Wikipedia)
では、なぜ「天海=光秀」説が流布されるようになったのでしょうか。その理由として、以下のような点が挙げられます。
①光秀の城下町であった坂本に、天海ゆかりの滋賀院門跡があり、その隣には天海の廟所である慈眼堂が建つ。
②天海が修行したとされる比叡山に、「光秀」という僧の記録が残るという伝承がある。
③比叡山の石灯籠に、「奉寄進願主光秀 慶長二十年二月十七日」と刻まれている。
④天海が深く関わった日光に、「明智平」という地名が残る。
⑤家康と光秀はもともと親しかったとされ、南光坊天海の「光」は光秀に由来する。
このような説は、物語としては非常に面白いのですが、現在のところ、天海=光秀説は確実な史料によって裏付けられたものではなく、伝承の域を出ないと考えられています。
光秀の首は本物だったのか?さまざまな「生存説」では、「光秀=天海説」のほかに、光秀生存説にはどのようなものがあるのでしょうか。代表的なものとしては、次のような説があります。
①光秀の首は偽物だった。
②農民に討たれたのは影武者だった。
まず①については、重傷を負って自害した光秀の首を、重臣の溝尾庄兵衛茂朝が現場近くに穴を掘って隠したという伝承があります。その首を翌日、農民たちが掘り出し、秀吉のもとに届けたというのです。
しかし、山崎の戦いが行われたのは天正10年(1582)6月13日です。季節はすでに夏であり、翌日に掘り出された首が、果たして本当に光秀のものだと判別できたのかという疑問が残ります。
戦略を練る明智光秀と斎藤利三。(NHK『豊臣兄弟!』公式サイトより)
のちに光秀の首は、斎藤利三(内藤剛志)とともに粟田口で胴体とつながれ、磔にされたと伝えられますが、なぜ光秀の首を人目につきやすい場所で晒さなかったのかという疑問も残ります。
また、粟田口で晒されていた光秀と利三の遺骸を、利三と親しかった絵師の海北友松が奪還した際、なぜ利三の遺骸だけを持ち去り、光秀の遺骸は残したままにしたのでしょうか。
友松は、光秀の遺骸が別人のものであることを知っていたのではないか、そのような想像も成り立つのです。
光秀の首に関しては、さらに謎があります。それは、光秀の首塚が複数存在することです。
知られているだけでも、京都市東山区三条通白川橋下ルの首塚、京都府亀岡市の谷性寺の首塚、そして娘の細川ガラシャが供養したと伝わる京都府宮津市の盛林寺の首塚があります。
いったい、どれが本物の光秀の首なのでしょうか。もしかすると、すべてが偽物だった。そのような可能性まで考えられるのです。
②については、農民による落ち武者狩りで討たれたのは光秀本人ではなく、影武者の荒木山城守だったという説です。
重傷を負った光秀はなんとかその場を逃れます。そして、美濃国武儀郡中洞村に身を潜め、荒深小五郎と名乗って再起を期していたものの、ついにその時は訪れず、この地で亡くなった。そして現在も、同地には光秀の墓とされるものが残されています。
山崎の戦いを前にする明智光秀。(NHK『豊臣兄弟!』公式サイトより)
このような生存説が残されているのは、多くの謎に包まれた明智光秀という一代の英雄にふさわしいともいえますが、同時に、光秀という人物が人々から強く慕われていたことの表れなのかもしれません。
主君・信長を殺した逆賊として、悪しざまに語られることの多い光秀。しかし『豊臣兄弟!』では、従来のイメージ通り、生真面目で温かい心情を持ち、文武両道に優れた武将として描かれました。
だからこそ、今回のドラマでは「光秀生存説」という、さらなる物語の可能性を残したとも考えられるのです。
長谷川博己演じる明智光秀。(NHK『麒麟が来る!』公式サイトより)
そういえば、光秀を主人公とした2020年のNHK大河『麒麟がくる』のラストシーンでも、光秀は「丹波の山奥に潜み、今も生きている」という噂があると語られました。
そして、光秀と深く関わった駒(門脇麦)が京の人混みのなかで「光秀らしき男」を目にします。彼女がその人影を見失い「十兵衛様」とつぶやくと、光秀らしき人物が馬にまたがり、疾走するシーンが描かれました。ここでドラマは幕を閉じたのです。
果たして、明智光秀は本当に山崎の戦いで死んだのか。それとも生き延びたのか。『豊臣兄弟!』でも、なんらかの形で、要潤演じる光秀が再登場することを期待する視聴者も多いのではないでしょうか。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan