朝ドラ『風、薫る』さよなら吉江先生…実際はりんのモデルを看護婦の道へ導いた実在モデル・植村正久とは
「風、薫る」、7月最後の週のテーマは『岐路』にて。
ヒロインの一ノ瀬りん(見上愛)にも大家直美(上坂樹里)にも、新しい“看護”のステージに進む岐路が訪れました。
そんな岐路を迎えたのは、ずっと直美を子供の頃から見守ってきた牧師の吉江善作先生(原田泰造)も同じ。伝道のために東京を去ることを直美に伝えに来たのです。
吉江先生は、実在の人物で日本の思想家・神学者・牧師などとして明治時代に活躍した植村正久がモデルと推測されています。
朝ドラ「風、薫る」実はりんのモデルを看護の道へ導いた牧師…吉江善作(原田泰造)のモデル・植村正久の生涯実は、実在の植村正久牧師はドラマとは異なり、直美ではなく一ノ瀬りんの実在のモデル・大関和と出会い彼女に大きな影響を与えた人でした。
正久は、和にトレインドナースになる道を勧め、和が決心するまで説得しました。いわば「日本のナイチンゲールを誕生させ日本に“看護の道”を切り拓いた立役者」でもあるのです。
植村正久とはどのような人物なのか、大関和とはどのような関係だったのかなどをご紹介しましょう。
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直美にお別れの挨拶をした吉江先生。ぎゅっと抱きしめたいけど遠慮していた様子が切ない。(NHK「風、薫る」公式サイトより)
※ドラマの時代設定に合わせ「看護師」ではなく当時のままの「看護婦」と表記しています。
※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。
ドラマでは、下谷松町教会の牧師・吉江善作は、孤児だった大家直美の成長をずっと見守り続けてきました。
生後すぐに捨てられて教会を転々としてきた直美は、ちょっと世を拗ねていて「嫌いなもの」ばかり。
「私、嫌いな物ばっかり。生まれつき家柄のいい人、いい人も嫌いです…誰より自分が嫌い」といって、吉江先生を悲しませていましたね。
嘘つきでひねくれて醒めているように見えるけれども、本当は寂しがりやで善良な心の持ち主の直美。けれども、明治維新に浮かれている社会を嫌っていました。
「結婚しなきゃ女はまともに生きちゃあいけない……納得行かない!この国じゃ逆立ちしたって幸せになれない。もうこんな国、出て行ってやる」
と怒り浸透でキレました。そんな直美の怒りを、いつも慰めたり導いたりしていた吉江先生。けれど、直美より先にすぐ泣いてしまいます。そのおかげで、逆に直美が冷静になれるといういいコンビでした。
直美の怒りがよく分かるだけに、すぐ泣いてしまう吉江先生。(NHK「風、薫る」公式「X」より
吉江善作のモデルは牧師・植村正久この吉江善作のモデルといわれているのが、明治時代に実在した牧師・植村正久なのです。
実は、この植村正久は、直美のモデルである鈴木雅ではなく、りんのモデルである大関和を見守りトレインドナースになる道を教えて、躊躇する和の背中を押した人なのです。
実は、ドラマの中のりんのように、和も親がまとめた縁談相手と19歳で結婚。夫は22歳年上・バツイチ・複数の妾持ちでした。和は夫の女関係や姑の性格などに耐えきれずに離婚します。
離婚後、夫との間に子供がいた和は、国の中国語通訳の仕事をしていた鄭永寧家で女中として働きました。
外国語が飛び交うハイカラな鄭家で働くうちに、親しくなった息子の鄭永慶に、「これからは英語の時代。英語を身につければ女性でも仕事はある」と語学習得を勧められます。
そして、永慶が紹介したのが植村正久の弟・正度が経営する英語塾だったのです。その塾ではほとんどがクリスチャンでした。その教えに興味を持った和は、教会にいる兄の植村正久を訪ねたのが出会いの始まりです。
キリスト教には興味がなかった和ですが、正久の裏面のない誠実な人柄に惹かれて信頼するようになりました。
ドラマの原案伝記小説では、和が正久に好感を持ったのは、彼は妻のことを「愚妻」とは呼ばず「賢妻」と呼んだというところ。
すごく、わかりますね。
明治時代は、「女は内をに在りて夫を助け家政を営め」な女性差別が当たり前の時代でした。
そんな時代、ほぼ同世代の男性の植村正久が「賢妻」と呼んでいることに和は感動を覚えたのではないでしょうか。(元夫がひどい男だっただけに)
旗本の息子が英語とキリスト教を学び牧師に
植村正久は和とおなじ安政4(1857)年に、徳川1500石の旗本の息子として江戸で生まれました。
維新後にお家は没落し、一家は横浜に引っ越します。正久は西洋の学問で身を立てようと熱心に英語を学び、その過程でキリスト教と出会ったのでした。
父は商売で身を立てようとするも失敗し病死、生活はどんどん苦しくなります。そのとき、正久はアメリカ人宣教師・ブラウンが開く英語塾に通っていましたが、学費の捻出が困難になってしまいました。
そこで正久は、自宅で塾を開きブラウン塾で学んだことを教えるように。私塾は評判も上々で生徒はたくさん集まったものの、塾に通学し続けるほどのお金は貯まりませんでした。
そんなある日、有名なアメリカ人宣教師の伝記を入手し、一晩で読み切ってしまうほどに感動した正久は、「牧師となり一生を伝道捧げる決意」をします。
その思いを手紙に書いてブラウンに伝えたところ、同氏は非常に感動し「学費は要らない」といってくれたそうです。(『植村正久と其の時代』より)
明治10年(1877)、正久は東京一致神学校の一期生となり、明治12年には日本基督一致教会の牧師となります。さらに、明治20年、一番町教会堂(のちの富士見町教会)を設立しました。大関和は、この設立したばかりの一番町教会堂で洗礼を受けています。
和は「キリスト教の一夫一婦の精神」を教えられて感動し、キリスト教こそが女性たちを救う宗教であると信じたそうです。
前夫の複数の妾や「妾は男の甲斐だ!と持ち上げる姑にうんざりしていたので、なおさらでしょう。
和は、気分が塞ぐと正久の教会に出かけては延々愚痴を聞いてもらったそう。正久は和の気が収まるまでずっと話を聞いてくれたそうです。
一見しかめっつらでとっつきにくそうに見える植村正久だが……wiki
植村正久が大関和に「看護婦になる」ことを勧めたそんなある日、正久から「看護婦にならないか?」と言われた和。
正久の教会経営に協力してくれている宣教師のマリア・T・トゥルーが、自身の経営する桜井女学校に付属の看護学校を作るので、一期生として入学しないか」とのことでした。
看護婦とはなにか?を知らない和は乗り気ではありませんでした。
この時代、看護婦は「賎業」と呼ばれ差別を受けていたので、抵抗もあり、そんな正直な気持ちを和は正久に打ち明けたそうです。
正久はフローレンス・ナイチンゲールの偉業を例に挙げて、看護婦は卑しいなどと言われるような仕事ではないこと。
そして「怪我や病気で苦しむ患者を救う看護の道は、キリスト教の博愛精神にかなう」と、説得したそうです。(『婦人新報』和の回想より)
和は、自分が家老の娘であることにこだわっていたことが急につまらないものに感じたそうです。
その後、マリアたちと横浜の貧民窟で行われている貧民救済活動に行き、「ここで必要なのは、十分な栄養と清潔な環境と女性の雇用です。それらをすべて満たせるのが看護婦という職業です」と聞かされて、看護婦になることを決めます。
和は早速その決意を報告したいと、植村正久宅を急いで訪れたのは深夜の1時過ぎだったそう。
ドラマの中でりんのことを直美が「こうと思ったらすぐに突っ走る」と笑いながら評してましたが、まさにその通りの性格ですね。
伝道以外にも政治・社会・教育・文学面も大関和が、桜井女学校付属看護婦養成所に入学したのは明治20年(1887)。
その頃、正久はロンドンに洋行したり東北学院神学部教授に専任されたり、各地で講演を行ったりと熱心な伝道活動をし続けます。
さらに明治37年(1904)には、外国人の宣教師に頼らない東京神学社神学専門学校を設立。明治39年には一番町教会の会堂を富士見町に建築し富士見町教会とします。
また、自身の発行物ではキリスト教のことだけではなく、政治・社会・教育・文学などについても積極的に触れました。
大正11年には、米英の関係諸教会へ特使として派遣され米国、カナダ、スコットランドを訪問し、帰国後は日本全国を巡って伝道活動をします。
ところが、大正12年(1923)の関東大震災で、富士見町教会や東京神学社は焼失してしまいました。
その頃、キリスト教主義の大関看護婦会を設立していた和は、看護婦会が全焼するものの看護に奔走していました。
その後も正久は、東京神学社の校舎を再建し、上田や松本、九州などの諸教会を伝道で巡るなどの活動をしていました。
けれども、大正14年、脳溢血のために66歳で急死。正久の訃報は翌日の新聞でも広く報道されたそうです。
感受性が豊かで人間味あふれる人
『植村正久と其の時代』に記された、正久の人となりを語るエピソードは大変興味深いものがあります。
正久の風貌について大隈重信は、「少しも耶蘇顔ではない。耶蘇の人といえば痩せた、星長い、寂しそうな顔をしているものだが、上無駄はまるで相撲取りのように太ってゴツゴツしている」と述べています。
けれども、子供好きで、子供が話かけると途端に優しい表情になったとか。また、感受性が豊かな人で、信仰のエピソードなどで感動するとよく涙を流す人でもあったそうです。
ドラマの吉江善作先生も、始終泣くのは正久のそんな人柄を取り入れたのかもしれませんね。
和も感情が突っ走る人で、看護婦になってからも、何かあると正久に号泣しながら怒ったり文句を言ったりしていたそうです。
同じ年なのに、正久は和にとっては甘えられる優しくて包容力のある父親のような存在だったのかもしれません。
直美に贈った『恵風看護婦会の名前』
ドラマでは、直美のことを一ノ瀬家が家族として受け入れたこと、直美が実母に会え看取れたことなど、そろそろ子離れしでも大丈夫だなと思ったのでしょうか。
吉江善作先生は九州で伝道するために東京を去ります。ずっと心配していた娘が立派に独り立ちして、嬉しいけれどさみしくてまた泣いてしまう吉江先生でした。
そんな先生に、直美は自分が新しく立ち上げた「派遣看護の会」の命名をお願いしました。
先生が命名したのは『恵風看護婦会』。お手紙には、
〜直美様 恵の風と書いて「けいふう」看護婦會と致候 直美様のように優しく心地好き風の吹き候様願居候 吉江〜
とありました。
ちなみに「恵風」は、万物を成長させるめぐみの風の意味で、春風を指すそうです。
直美の派出看護婦の会に命名を頼まれた吉江先生。(NHK「風、薫る」公式サイトより)
癒しだった吉江先生。いつか再会できますように…大関和にとって植村正久が頼り甲斐のあるよき相談相手だったように、ときどきは吉江先生が東京に立ち寄って直美の愚痴や悩みを聞いてくれる相手となってくれますよう。
「癒しキャラ」とSNSでも評判だった、原田泰造さんの吉江先生は、モデルになった植村正久に似ているような気がします。
またいつか、会える日を楽しみに。しばし、さようなら吉江先生。
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『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる
『植村正久と其の時代』
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