【豊臣兄弟!】22歳で散った長宗我部元親の天才後継者・信親とは?武勇を奮った若武者の壮絶な最期
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」新キャストの発表で、長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)を林裕太が演じることになりました。
果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。今回は信親の活躍を紹介、大河ドラマをより楽しむ予習になれば幸いです。
将来を嘱望された若武者
『絵本豊臣勲功記』より「信親父を説んと欲して内府諸将の敵陣を穿ちて高知の城に赴く」の図。
長宗我部信親は永禄8年(1565年)、土佐の戦国大名・長宗我部元親(磯部寛之)の嫡男として誕生しました。生母は正室の石谷氏(石谷光政女)と言われます。
幼名は千雄丸、幼いころから利発で文武に秀で、礼儀正しく少年だったそうです。
元親は信親の将来を嘱望し、後継者として英才教育を施しました。
剣術・馬術・弓射・槍術・薙刀などの武芸はもちろん、笛・太鼓・鼓・謡・蹴鞠・囲碁にいたるまで、各国から一流の師範を招いて学ばせたと言います。
真綿が水を吸い込むように成長していく信親の様子は末頼もしく、家臣や領民たちも慕っていました。
やがて天正6年(1578年)に元服し、通称を弥三郎と名乗り、諱を信親とします。
信の字は当時友好関係にあった織田信長(小栗旬)から贈られたもので、さらに左文字の銘刀と栗毛の駿馬を贈られたそうです。
元服後の信親は父に従って各地を転戦し、智勇兼備の若武者として、長宗我部家の勢力拡大に貢献しました。
『土佐物語』によると身長は6尺1寸(約184センチ)、色白で柔和な顔立ちだったと言います。
また「詞すくなく礼儀ありて厳ならず」つまり寡黙でムダ口を叩かず、礼儀正しいけれど堅苦しさはなく、自然体で人々から敬愛されていました。
体力にも優れており、走り跳びで二間(約4メートル)を跳び越え、また跳びながら抜刀する技量もあったそうです。
元親は信親の武勇について「樊噲(はん かい。前漢の劉邦に仕えた豪傑)にも劣るまい」と豪語し、その噂を聞いた信長が養子に迎えたいと言うほどでした。
宣教師のルイス・フロイス(フェルナンデス直行)が記した『日本史(フロイス日本史)』では、信仰心に厚かった信親がキリシタンになろうと考えていたと言います。
が、実際そのような動きは見られず、恐らく「立派な人物をキリスト教に結びつけたい」という思惑による創作ではないでしょうか。それほど立派な人物であったことがうかがえます。
秀吉の命令で九州へ遠征
やがて元親が四国政策をめぐって信長と決別し、天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で横死を遂げると、織田政権は羽柴秀吉(池松壮亮)に乗っ取られていきました。
そして天正13年(1585年)に羽柴小一郎(仲野太賀)が四国へ攻め込んでくると、元親はこれに降伏。土佐一国のみを安堵されます。
やがて天正14年(1586年)に秀吉が大友宗麟への援軍として兵を起こすと、元親・信親父子もこれに従軍しました。
12月11日に戸次川(へつぎがわ)のほとりに布陣した元親らは、軍議の席で意見が対立します。
仙石秀久(せんごく ひでひさ)や十河存保(そごう まさやす)らは「ただちに川を渡って決戦を挑むべし」と主張、信親は「地の利があるこの地に留まり、増援の到着を待つべき」と反論しました。
結局は渡河決戦が採用されてしまい、信親は家臣たちに不満をもらします。
……信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ……
※『土佐物語』より。
仕掛けられていると分かりきった罠の中へ、自分からかかりに行くようなものだ。それでも決定には逆らえず、信親は決死の覚悟を固めたのでした。
武勇を奮った壮絶な最期
果たして12月12日、先陣を切った仙石秀久の軍勢はたちまち敗走し、長宗我部勢3,000は新納大膳亮(にいろ だいぜんのすけ)率いる5,000の敵勢を食い止めます。
乱戦の中で元親とはぐれてしまった信親は、中津留川原に踏みとどまって奮戦しました。
「ここまで持ちこたえれば面目も保てましょう。どうかお退き下され」
家臣の桑名太朗左衛門(くわな たろうざゑもん)が退却するよう進言しますが、信親は聞き入れません。
「ならぬ。ここで討死すると決めたからには、最期まで戦ってこそ残る名もあろう」
『元親記』によると、信親は刃渡り4尺3寸(約130センチ)の大薙刀を奮って8人を斬り伏せました。さらに敵が群がると今度は太刀を抜き、6人を斬り捨てたと言います。
しかし衆寡敵せず、力尽きた信親は敵将の鈴木大膳(すずき だいぜん)に討ち取られてしまいました。
信親に従っていた700の軍勢も全滅し、文字通り玉砕したということです。
信親の死による影響
いっぽう元親は窮地を脱して生き延びましたが、信親の討死を知って大いに悲しみます。
そして谷忠澄(堀部圭亮)を派遣して信親の遺体を乞い受け、荼毘に付しました。
遺骨ははじめ高野山の奥院に納めたものの、後に分骨して天甫寺(高知県高知市)に埋葬しています。
土佐へ帰国してからも元親は立ち直れず、またこの合戦で次世代を担う若武者たちを多く喪ったことから、長宗我部家は次第に衰弱していきました。
こうした成りゆきを鑑みれば、信親は武辺の面目に殉ずるよりも、命を保って家運を守るべきだったのでしょうか。
しかしそれは結果論であり、信親としては武士としての心映えを示すべき、つまりやむを得ない苦渋の決断でした。
あえて非を問うのであれば、それは元親に帰するものと言えます。
後継者の控え確保(信親以外にも人材を育てておく)や出陣者の選定(若武者ばかり選ばない)など、打てる手はあったでしょう。
※もちろん他の息子たちもいるのですが、元親の落胆ぶりからして、後継者としては眼中になかったものと思われます。ちなみに家督は四男の長宗我部盛親(もりちか)が継ぎました。
元親が後継者の控えを考えられなくなるほど、信親が魅力的であったことがうかがえますね。
終わりに今回は長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親について、その生涯をたどってきました。
22歳という若すぎる最期でしたが、もし生きていたら、長宗我部家は大いに発展していたのでしょうか。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、どのような若武者ぶりが描かれるのか、林裕太の好演に期待しています!
※参考文献:
平井上総『長宗我部元親・盛親』ミネルヴァ書房、2016年8月 山本大『新装版 長宗我部元親』吉川弘文館、1988年1月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan