なぜ浅井の旧臣は秀吉に従ったのか? 武力を使わず“自分の味方”に変えた裏工作の技法とは (2/4ページ)

Japaaan

秀長は慎重で温厚な性格で知られ、北近江の新体制を支える調整役として動いていたと考えられます。

兄弟の連携が、旧浅井領の安定化を後押ししたのでしょう。

では、秀吉はどのようにして北近江を“敵の土地”から“自分の領国”へと変えていったのでしょうか。

地域全体を「動かす」

北近江三郡の平定を読み解く鍵は、秀吉が旧浅井家臣をどう扱ったかにあります。

浅井長政(Wikipediaより)

一般的には、敵方の家臣は排除されるものですが、秀吉はむしろ積極的に取り込んでいきました。

たとえば、浅井氏の重臣であった阿閉貞征が織田方に寝返った際、秀吉はその動きを巧みに利用し、浅井氏の崩壊を加速させました。これは『信長公記』にも記される重要な転機です。

さらに、浅井旧臣の多くを自らの家臣団に組み込み、北近江の統治に活用しました。敵を味方に変える柔軟な姿勢こそ、秀吉の真骨頂だったと言えるでしょう。

また、秀吉は軍事面でも北近江の再編を進めています。元亀三年には小谷城近くに虎御前山城が築かれ、秀吉がその城番に任じられました。

ここは浅井包囲網の中核であり、周辺の軍道や防備の管理を担う重要拠点です。

この経験が、秀吉の広域支配の感覚を育てたと考えられます。山城に籠もるのではなく、地域全体を動かす視点が必要だと理解したのでしょう。

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