なぜ浅井の旧臣は秀吉に従ったのか? 武力を使わず“自分の味方”に変えた裏工作の技法とは (3/4ページ)
こうした懐柔策と再編が進むにつれ、北近江は徐々に安定を取り戻していきました。武力だけではなく、政治と調略を組み合わせた統治だったのです。
支配モデルの転換北近江三郡の統治が本格化するのは、秀吉が今浜(のちの長浜)に新たな城を築いてからです。
ここで、山城の小谷城ではなく琵琶湖畔の平地を選んだことは、秀吉の統治方針が大きく転換した証拠でしょう。
長浜は湖上交通の要衝であり、北近江の物流を掌握するには最適の地でした。『信長公記』が示すように、琵琶湖を使えば京・堺・若狭・越前といった経済圏と直結できます。
つまり、秀吉は北近江を「閉じた領国」ではなく「開かれた経済圏」として再構築しようとしたのです。
長浜城は平城であり、城下町の形成にも適していました。秀吉はここで商人を呼び込み、経済の活性化を図ります。
さらに旧浅井家臣を家臣団に取り込み、地域の有力者を再編し、北近江の支配構造を根本から作り替えていきました。
この一連の動きは、のちの豊臣政権の基盤となる広域統治モデルの原型と言えるでしょう。
北近江三郡の平定は、武力による制圧ではなく、政治・経済・軍事を組み合わせた総合的な再編でした。秀吉は旧浅井領を“奪った”のではなく、“作り替えた”のです。