もしも豊臣秀長が長生きしていたら…?秀吉の暴走と豊臣家滅亡を防げた「最強のカリスマ性」 (2/4ページ)

Japaaan

春には一時的に回復し、春日大社に参籠して感謝を示すほど元気を取り戻しましたが、秋には再び悪化します。秀吉が再度郡山を訪れて見舞った時も、秀長は床から起き上がれない状態でした。

そして天正十八年正月二十二日、秀長は五十二歳で息を引き取りました。葬儀には公家や大名だけでなく庶民も多数参列し、二十万人が郡山に集まったと記録されています。

秀長亡き後の暴走

あまりにも早すぎる豊臣秀長の死は、豊臣政権にとって大きな節目でした。

実際、その後、豊臣政権は急速に不安定さを増していきます。例えば、秀吉が千利休を自刃に追い込んだのは、秀長がいなくなってわずか一か月後のことでした。

利休の死は政権の文化的支柱を失わせ、世間にも強い衝撃を与えます。

千利休像

続いて秀吉は、悪名高い朝鮮出兵を命じます。この決断が多くの反発を招き、政権の求心力を大きく損なう結果になったのはご承知の通りです。

さらに、出兵中に甥の秀勝が死亡し、秀長の養嗣子であった秀保謎の死を遂げています。関白職を譲った秀次も、秀吉の命によって自刃させられました。

見ての通り、豊臣家の後継構造は急速に崩れ、政権の内部は混乱を深めていきます。

もしもこの時点で秀長が生きていれば、こうした急激な決断や内部崩壊を抑える役割を果たした可能性は十分に考えられます。

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