対話がダメなら殺し合い!戦国時代の農民はガチで武器を持っていた…秀吉が発した“喧嘩停止令”とは?
豊臣秀吉(羽柴秀吉)と言えば卑賤の身から天下人へと成り上がった戦国乱世の風雲児として知られています。
波瀾万丈の末に天下をつかんだ秀吉は、それを覆されてなるものか、と非武士階層による武装蜂起や武力抗争の芽を摘んでいきました。
今回はそんな秀吉が発した喧嘩停止令(けんかちょうじれい)を紹介したいと思います。果たしてどんな内容だったのでしょうか。
※関連記事:
もしも豊臣秀長が長生きしていたら…?秀吉の暴走と豊臣家滅亡を防げた「最強のカリスマ性」 「百姓は生かさず殺さず」江戸時代の農業政策を表すこの言葉の本当の意味とは? 話してダメなら殺し合いの論理喧嘩停止令とは、文字通り喧嘩を停止(禁止)する法令です。
ここで言う喧嘩とは、子供がポカポカ殴り合う可愛らしいレベルではなく、村落単位での武力抗争を指します。
それぞれ手に手に得物をとり、鍬や鎌などの農具から、槍や鉄砲などのガチ武器まで様々でした。
そんなものどこで手に入れた?と言えば、近くで合戦があった時に拾ったか、略奪でもしたのでしょう。
売って金銭に換えてもよし、そのまま隠し持っておき、ここ一番の時に持ち出すこともあったと思われます。
銃刀法なんて存在しない時代ですから、思い思いに武装を揃えて自慢したり、あるいは使用したりしていたのでしょう。
それで喧嘩の理由は何かと言えば、例えば水争いや山争い、逃げ込んだ罪人の始末や私怨などいくらでもありました。
水争い:農作物に引く水を巡る訴訟や争論、そして武力抗争 山争い:杣(そま。村落単位で共有する山)の資源確保を巡る訴訟や争論、そして武力抗争みんな生きていくために必死ですから、譲り合う余裕など(あまり)ありません。
話し合いでダメなら殺し合いで決めよう、とばかりに全国各地で「喧嘩」が繰り広げられたのでした。
戦国乱世の主役は武士階層だけではなく、あらゆる人々が生き延びるために眼光を爛々とさせていたのでしょう。
そんな殺伐とした世の中では治安が乱れるのは当然です。
生活と将来に対する不安と不満が鬱積すれば、いつかお上(豊臣政権)にぶつけてこないとも限りません。
だから秀吉は非武士階層の無抵抗化を図ったのでした。
具体的な内容や時期は?
かくして発せられた喧嘩停止令ですが、実はいつ・どんな内容で発せられたのかについて、詳しいことはわかっていません。
訴訟における判例の中で喧嘩停止令が言及されているため、発せられた事実は確かにあるものの、具体的な内容については記録が残っていないのです。
また喧嘩停止令が発せられた時期についても明確に裏づける史料はなく、最古の判例は天正15年(1587年)の春でした。
刀狩令や海賊停止令が天正16年(1588年)に発せられているので、それより古くから発せられたことがわかります。
「武器を取り上げたり、すでに武装勢力として確立されている海賊を取り締まったりするより先に、農民たちの武装蜂起を取り締まろう」と考えたのでしょうか。
恐らくは秀吉が九州地方に対して惣無事令(そうぶじれい)を発した天正13年(1585年)以降に発せられたものと考えられます。
※天正12年(1584年)までは織田政権の継承抗争(賤ヶ岳合戦や小牧・長久手の合戦)が相次いでいたことから、天下人として振る舞うことは難しかったでしょう。
ちなみに喧嘩停止令では、武装蜂起や武力抗争を禁じているものの、武器の所持までは禁止しきれなかったようです。
「生活(狩猟など)や自衛のために武器を持つのは黙認するが、公然と帯刀したり武装したり、武士や私兵団のように振る舞うことは許さない」
完全な兵農分離を徹底するには、今しばらく時を要するのでした。
徳川時代の喧嘩停止令
家光の代になって、ようやく天下泰平が実現しつつあった?(イメージ)
喧嘩停止令は徳川政権下においても受け継がれ、江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠が慶長15年(1610年)に発したものが残されています。
郷中にて、百姓等、山問答・水問答につき、弓・鑓・鉄砲にて、互いに喧嘩いたし候者あらば、その一郷を成敗いたすべき事
【意訳】村の中で山争いや水争いが起こり、弓・槍・鉄砲で武力行使に及んだ者がいた場合、村の全員を処刑する。
……いわゆる連帯責任ですが、かなり厳しいですね。しかし刀は規制の対象外なのか、明記されていません。
要は喧嘩に飛び道具や長物を持ち出すな、ということでしょう。
こういうお達しを聞いて、石礫(つぶて。石を投げつける)や鉞(まさかり)なんかもダメなのか、何とか規制をかいくぐりたくなってしまうのは人情というものです。
また鍬や鎌、鉈(なた)などの農具は許されたのでしょうか。
「……そもそも喧嘩をするな。どうしてもするなら素手でしろ(できれば非暴力で)」当局が頭を抱える様子が目に浮かぶようです。
しかしあまり守られていなかったのか、寛永12年(1635年)に第3代将軍・徳川家光が改めて喧嘩停止令を発しました。
井水・野山領境などの相論つかまつり候時、百姓、刀・脇指をさし、弓・鑓をもち、まかり出るにおいては、曲事(くせごと)たるべき事
【意訳】水争いや山争いなどで争論が発生した時、農民が刀・脇指・弓・槍などで武装した場合は罪に問う。
付けたり、何ごとによらず、百姓、口論をいたし候時、他郷より荷担せしめば、本人よりその科(とが)を重くすべき事
【意訳】追加。いかなる理由であれ、争論に加担した者は、当事者よりも重い罪に問う。
……一村全員処刑の規定は廃止されたのですね。鉄砲に関しては規制が進んだのか、明記されなくなりました。
また主犯よりも従犯の罪を重くすることで、抗争の規模拡大を防ぐ狙いがうかがえます。
何より罪の軽重を問うということは、処刑一択ではなくなったようです。泰平の世が安定し、人々もそうそう武力蜂起などしなくなっていたのでしょうね。
終わりに今回は秀吉が発した喧嘩停止令について紹介してきました。
具体的な内容については、恐らく徳川時代と同様か、あるいはそれより厳しかったのかもしれません。
果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、喧嘩停止令が言及されるのか、またどのように発せられるのかに注目です。
※関連記事:
もしも豊臣秀長が長生きしていたら…?秀吉の暴走と豊臣家滅亡を防げた「最強のカリスマ性」 「百姓は生かさず殺さず」江戸時代の農業政策を表すこの言葉の本当の意味とは?※参考文献:
藤木久志『刀狩り -武器を封印した民衆-』岩波新書、2005年8月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


