【豊臣兄弟!】秀吉vs勝家「賤ヶ岳の戦い」お市を自刃に追い込んだ1年におよぶ調略合戦の全貌

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【豊臣兄弟!】秀吉vs勝家「賤ヶ岳の戦い」お市を自刃に追い込んだ1年におよぶ調略合戦の全貌

大河ドラマ「豊臣兄弟!」第31回『これで、お別れにございます』で描かれたように、羽柴秀吉(池松壮亮)の野望を阻止するため、お市(宮崎あおい)は柴田勝家(山口馬木也)と結婚し、諸大名と連携します。

そして、織田家を乗り越え天下を狙う秀吉の覚悟と、命に代えても織田家を守り抜くお市の覚悟の板挟みで、小一郎(仲野太賀)が葛藤する様子が描かれていました。

いよいよ避けられぬ両者の対決、後世に伝わる賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いとは、どのような戦いだったのでしょうか。

今回は清須会議から約1年間にわたって繰り広げられた抗争劇を紹介します。

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天正10年(1582年)両陣営の調略合戦

三法師を放さない信孝。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。

清須会議の後、織田信孝(結木滉星)は幼い織田家当主・三法師(清水伊織)を抱え込んで放さないため、秀吉はこれを「謀叛」と喧伝しました。

秀吉は丹羽長秀(池田鉄洋)や池田恒興(堀井新太)らと共に、織田信雄(山脇辰哉)を新たな織田家当主として担ぎ上げます。

かくして三法師&織田信孝&柴田勝家と織田信雄&羽柴秀吉という対立構造が形成されました。

両陣営は盛んに調略を行い、秀吉は越後の上杉景勝や、美濃の稲葉良通(嶋尾康史)らを味方に引き入れます。

一方の勝家らは土佐の長宗我部元親(磯部寛之)や紀伊の雑賀衆(さいかしゅう)らを味方に引き入れ、互いの背後を脅かし合いました。

天正10年(1582年)偽りの和睦

越前の雪は深い。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。

そんな中、11月に入ると勝家から和睦の申し入れが行われます。

これは雪国である越前に所領を持っている勝家が、冬の間は積雪のため動けないことから、春まで時間を稼ぐための工作でした。

勝家の意図を見抜いた秀吉は交渉に応じるふりをしながら、一方で中川清秀(すがおゆうじ)・筒井順慶(永沼伊久也)・三好康長(妹尾 正文)らを調略して味方に引き入れます。

かくして和睦が成立しましたが、墨も乾かぬ12月2日、秀吉は和睦を反故にして柴田領へ侵攻しました。

清須会議で勝家に譲った近江長浜城を奪還し、守将の柴田勝豊(かつとよ。勝家の甥で養子)を降伏させたのです。

続く12月20日には岐阜城の信孝を攻めてこちらも降伏させ、三法師の奪還に成功しました。

越前の勝家が雪に閉ざされて動けない隙を狙った秀吉の作戦勝ちと言えるでしょう。

また12月22日には、徳川家康(松下洸平)から信雄に対して挨拶がありました。

これは信雄が織田家当主となったことへの祝いで、実質的に秀吉らを支持する意思表明となります。

東海5ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)を領する家康を味方に引き入れた(秀吉に対する好意的な中立を確保した)ことで、秀吉の優位はさらに盤石となったことでしょう。

天正11年(1583年)いざ決戦の舞台へ

決戦に臨む秀吉。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。

この流れに危機感を募らせたのか、1月1日の新年早々に滝川一益(猪塚健太)が伊勢で反秀吉の兵を挙げました。

一益は清須会議の結果として所領の多くを失い、その保障が図られなかったことから、秀吉を恨んでいたようです。

いまだ雪の中で閉ざされていた勝家も、ただじっとしていた訳ではありません。

2月13日には勝家が足利義昭(尾上右近)と毛利輝元(濱省悟)に対して支援を要請しています。

2月半ばに秀吉が一益を討つべく伊勢へ侵攻し、2月末にはとうとう勝家がまだ雪深い越前から兵を挙げました。

勝家は前田利家(大東駿介)や佐久間盛政(遠藤雄弥)ら3万の軍勢を率いて、3月12日に近江国柳ヶ瀬へ到着します。

3月14日には勝家は義昭を室町将軍として奉戴するとともに、輝元に対しては援軍を派遣するよう督促しました。

3月19日になると、伊勢に残留部隊を残した秀吉が近江国木ノ本へ到着。5万の軍勢を配置します。

かくして決戦の舞台が調ったものの、いきなり攻めかかることはせず、互いに陣地の構築にとりかかりました。

天正11年(1583年)いよいよ決戦!

なぜ利家は勝家を見限った?NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。

一方そのころ、4月5日に義昭は輝元に対して勝家へ援軍を送るように命じます。しかし輝元は戦況の判断に迷い、その挙げ句に出兵を見送ったのでした。

また4月16日には一度降伏した信孝が美濃で挙兵し、岐阜城を奪還します。

岐阜城を奪還されてしまった秀吉は急きょ美濃へ進軍しますが、揖斐川の氾濫によって足止めを食らい、大垣城へ入りました。

この隙をついて佐久間盛政が中川清秀の守る大岩山砦を襲撃し、清秀が討ち死にしてしまいます。

4月20日に清秀の討ち死にを知った秀吉は、大急ぎで大垣城から近江国木ノ本へ兵を返しました。

これが世に言う「美濃大返し」、秀吉は強行軍の末に十三里(約52キロ)を二刻半(約5時間)で走破する荒技を見せています。

よもやこんなに早く秀吉が戻ってくるとは夢にも思わなかった佐久間盛政の陣営は大混乱に陥りました。

かくして4月21日に決戦が繰り広げられますが、勝家に与していた前田利家が、なぜか兵を引き揚げてしまったのです。

その理由には諸説あり、かねて秀吉の調略を受けていたとも言われます。しかし前田勢の撤退時には羽柴勢の追撃を受けており、相応の犠牲を出していることから、一概に断定は出来ません。

前田利家の戦線離脱によって柴田勢の士気は大いに下がり、決戦の軍配は秀吉に上がりました。

天正11年(1583年)ついに決着!

最期まで戦い抜いた勝家。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。

勝家らは越前の北ノ庄城へ逃げ帰りますが、4月23日には秀吉の大軍に包囲されてしまいます。

そして4月24日に勝家やお市らは自刃して果て、織田家筆頭家老を務めた柴田家は滅亡しました。

翌4月25日には秀吉が輝元に対して戦勝を報告し、これは暗に服属を迫る意味が込められています。

また岐阜城に立て篭もっていた信孝も降伏し、4月29日に自害させました。

かくして近江・美濃の戦線を制圧した秀吉に残された課題は、いまだ抵抗を続けている伊勢の滝川一益のみとなります。

もはや孤立無援となった一益は7月まで徹底抗戦したものの、ついに刀折れ矢尽きて降伏しました。

命まではとられず、出家の上で改易(所領の全没収)、追放されたということです。

終わりに

第32回放送「賤ヶ岳(しずがたけ)の決闘」。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

今回は賤ヶ岳の戦いについて、その流れを駆け足で紹介してきました。呉越同舟の宿敵であった柴田勝家を滅ぼし、もはや織田家中に秀吉の敵はいません。

しかしまだまだ各地に強豪は残っており、天下一統の道はまだまだ続くのでした。

果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、これらの名場面がどのようにアレンジされていくのか、楽しみにしています。

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※参考文献:

『歴史群像シリーズ 15賎ヶ岳の戦い―秀吉VS勝家覇権獲得への死闘』学習研究社、1989年12月 池上裕子ら『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月 高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社、2001年1月

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