「大うつけ」はポーズ?若き織田信長が京都で目撃した将軍の権威と「三好長慶」の実力 (2/3ページ)
そんな道三が信長をどう見ていたのかは、はっきりしていません。
一五五二年には信秀が亡くなりました。その後、一五五七年に信長は、尾張の主権をねらって動いていた弟の信勝を殺害しています。
さらに一五五八年には、尾張上四郡の守護代だった織田信賢を軍事的に破りました。信長はこうして、尾張で勢力を広げるための大きな課題を一つずつ処理していったのです。
そして一五五九年二月、信長は京都へ向かいました。目的は、復活した十三代将軍・足利義輝との謁見です。
信長は義輝との面会を終えると、京都に四、五日ほど滞在して尾張へ戻りました。滞在期間だけを見ると、かなり短い上洛だったと言えます。
しかし、この短い京都滞在で信長が目にした政治の仕組みは重要でした。そこには、将軍の権威と実力者の政治力という二つの現実があったのです。
三好長慶の政治当時、全国の有力大名を京都へ呼び寄せる力を持っていたのが足利義輝でした。ところが、実際の畿内政治では三好長慶が強い影響力を持っていました。