吉田松陰の妹を「2人娶った男」――幕末、陰で長州藩を動かした知られざる実務家・楫取素彦【前編】 (2/3ページ)
さらに江戸へ出て、儒学者の安積艮斎にも学んでいます。
当時の武士にとって、学問は今でいう「勉強しておけば役に立つかもしれない」というものではありません。藩の仕事をするなら、学問はかなり大事でした。政治のことを考え、文章を書き、人と話し、藩の命令を伝える。そうした仕事には、それなりの知識が必要です。
楫取も、こうして学問を身につけながら、藩士としての道を歩いていきました。そして、その後の人生に大きな影響を与える人物と出会います。吉田松陰です。
楫取は松陰と親しく付き合うようになり、やがて松陰の妹・寿と結婚します。この結婚をきっかけに、楫取は松陰の家族とも深くつながっていきます。その縁は、松陰が亡くなったあとも続きました。
松陰が亡くなったあとも、藩の仕事は続いた1859(安政6)年、吉田松陰は幕府によって処刑されました。松陰の死後、その門下からは高杉晋作や久坂玄瑞らが政治の世界へ出ていきます。長州藩そのものも、幕府との対立を深めていきました。ただ、楫取は高杉や久坂のような動き方をしていません。ここが楫取を見るときの面白いところです。
彼は、政治運動の先頭に立って大声を上げるタイプではありませんでした。藩士として、与えられた仕事を一つずつ進めていく。藩の方針を伝える。人と人の間に入る。交渉する。
楫取の生き方は、決して派手ではありません。けれど、こういう仕事がなければ藩の政治は動きません。歴史の教科書では、どうしても「誰が何を言ったのか」「誰が戦ったのか」が目立ちます。その裏側には、文書を作ったり、交渉に出向いたり、人間関係を調整したりする人たちがいました。
楫取は、そちら側の人間だったと考えるとわかりやすいでしょう。松陰が人を育て、高杉や久坂が激しく時代を動かしていく一方で、楫取は藩の中で仕事を続けていました。この違いは、楫取という人物を見るうえでけっこう大事です。
薩長同盟の時代幕末になると、長州藩と幕府の対立はさらに激しくなります。1864(元治元)年には長州征討が行われ、長州藩は厳しい状況に置かれました。
ところが、その後に大きな変化が起こります。