【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路

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【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路

大河ドラマ「豊臣兄弟!」第32回放送「賤ヶ岳(しずがたけ)の決闘」では、加藤清正(伊藤絃)が佐久間盛政(遠藤雄弥)と一騎討ちを演じている場面が描かれていました。

しかし賤ヶ岳の戦いでは、清正だけでなく秀吉子飼いの若武者たちが多数活躍しています。

今回は後に「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」と喧伝された豪傑たちについて紹介。今後ドラマでは活躍してくれるでしょうか。

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加藤清正(かとう きよまさ)

加藤清正(画像:Wikipedia)

生没:永禄5年(1562年)6月24日生~慶長16年(1611年)6月24日没

幼名は夜叉若(やしゃわか)、元服して通称を虎之介(とらのすけ)と名乗ります。

刀鍛冶の息子として生まれ、秀吉の遠縁であったことから、12歳となった天正元年(1573年)に小姓として仕官しました。

初陣は21歳の天正10年(1582年)4月、秀吉が冠山城(かんむりやまじょう。岡山県岡山市)を攻めた時、城内へ一番乗りを果たして竹井将監(たけい しょうげん)を討ち取っています。

続いて同年6月の山崎合戦に従軍し、翌天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勢へ寝返った山路正国(やまじ まさくに)と討ち取りました。

天正13年(1585年)7月に秀吉が関白に就任すると、清正は従五位下・主計頭(かずえのかみ)に叙せられます。

続く天正14年(1586年)の九州征伐に従軍し、天正16年(1588年)に佐々成政(白洲迅)が改易されると、成政に代わり肥後半国を与えられました。

他にも清正は小牧・長久手の合戦(天正12・1584年)や四国征伐(天正13・1585年)など多くの合戦に従軍していますが、その多くは秀吉の周辺を警護するなど、最前線に出ることはほとんどなかったようです。

『清正記』などの伝記では清正の武功や秀吉からの感状などが紹介されているものの、これらは創作である可能性が指摘されています。

むしろ清正が期待されたのは実務官僚としての役割であり、豊臣政権の蔵入地を管理したり、九州平定後の戦後処理などに才能を発揮しました。

もちろんそうした才能は遠征先の戦地においても発揮され、文禄元年(1592年)から始まった朝鮮征伐(文禄の役・慶長の役)では渡海して朝鮮半島へ出陣しています。

やがて慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、清正ら遠征部隊は日本へ帰国してきました。

秀吉亡き後の豊臣政権を支えるべく、五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)の筆頭となっていた徳川家康と接近するようになります。

一方で石田三成(松本怜生)ら文治派と対立し、慶長4年(1599年)に前田利家(大東駿介)が世を去ると、福島正則(松崎優輝)や浅野幸長(あさの ゆきなが)らとともに三成を襲撃するなど抗争が激化していきました。

そして慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が勃発。家康率いる東軍と、三成率いる西軍が、それぞれ「豊臣家をお守りするため」として兵を挙げたのです。

清正が家康率いる東軍に与したことはよく知られていますが、当時の書状からは西軍に与するべきか去就を迷っていたとも言われます。結局は与した東軍が勝利したため、清正は引き続き豊臣政権の重鎮として豊臣秀頼(ひでより。秀吉遺児)に忠義を尽くしました。

その後も豊臣・徳川両家の両立を図るべく尽力していましたが、慶長16年(1611年)6月24日に50歳で世を去ります。

その死因は脳溢血とする説が有力ながら、梅毒や癩病(ハンセン病)、または家康による毒殺なども噂されたそうです。

福島正則(ふくしま まさのり)

福島正則(画像:Wikipedia)

生没:永禄4年(1561年)生~寛永元年(1624年)7月13日没

桶屋または桶大工の長男として誕生し、秀吉の従兄弟であったことから秀吉の小姓となりました。

初陣は18歳となった天正6年(1578年)、播磨三木城攻めに従軍しています。天正10年(1582年)の山崎合戦では勝竜寺城攻めで武功を立て、また天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは一番槍を果たし、一番首として拝郷家嘉(はいごう いえよし)を討ち取りました。

そのため他の「七本槍」よりも高く評価され、5千石の知行を賜わっています(他の6人は3千石でした)。

それからも天正12年(1584年)小牧・長久手合戦や天正13年(1585年)四国征伐、そして天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍。武功によって伊予国今治11万3千石の大名となります。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍して武勲を立てたほか、秀吉の天下一統後も文禄の役(第一次朝鮮征伐)に従軍して戦功を上げました。

帰国後の文禄4年(1595)にはいわゆる「秀次事件」に立ち会い、謀叛の嫌疑で出家した羽柴秀次(秀吉の養子で姉ともの長男)に切腹の命令を伝えたとされています。事件後に尾張国清洲24万石に加増されました。

慶長の役(第二次朝鮮征伐)には従軍していませんが、これは秀吉による大軍勢の派遣計画を準備していたためです。しかし慶長3年(1598年)8月に秀吉が世を去ると、計画は実行されることなく朝鮮半島から全軍が引き揚げてきました。

秀吉の死後は清正と同じく家康に接近して豊臣政権の維持を図り、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では家康率いる東軍の将として活躍し、戦後は恩賞として安芸広島・備後鞆に49万8千石と与えられます。

その後は領国整備を勧めながら、豊臣家と徳川家の仲立ちとしても奔走しますが、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発してしまいました。

正則は豊臣家に与することもできず、徳川家に従軍することも許されぬまま、慶長20年(1615年)に豊臣家の滅亡を見守ることになります。

元和5年(1619年)に台風で本拠地の広島城が破損したため、これを修繕したことが武家諸法度の違反と咎められ、信濃国川中島(長野県須坂市など)4万5千石に減封されてしまいました。

そして寛永元年(1620年)7月13日に64歳で世を去ります。幕府の検死役が到着する前に遺体を火葬してしまったため、残った所領も改易されてしまったそうです。

片桐且元(かたぎり かつもと)

片桐且元(画像:Wikipedia)

弘治2年(1556年)生~慶長20年(1615年)5月28日没

近江の国人領主であった片桐直貞(なおさだ)の長男として生まれ、はじめは浅井長政(中島歩)に仕えています。

天正元年(1573年)に浅井家が滅亡すると、長浜城主となった羽柴秀吉に仕えました。正確な時期は不明ですが、中国攻めには従軍していたと考えられます。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは他の七本槍とともに一番槍の武功を認められ、恩賞として摂津国に3千石を与えられました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦にも従軍し、他の七本槍と同様に秀吉の馬廻衆としてその本陣を警護しています。

天正14年(1586年)には従五位下・市正(いちのかみ)と叙せられ、豊臣姓を賜わったほか、京都方広寺の作事奉行を務めました。

これ以降は奉行職として実務能力を発揮し、インフラ整備や物資調達などの兵站任務を担当しています。天正15年(1587年)の九州征伐では軍船の調達を担当しました。

一見地味ではあるものの、補給なくして勝利はおろか、継戦すらままなりません。秀吉の天下一統は、彼ら実務官僚の功績によって支えられたと言えるでしょう。

天正18年(1590年)に小田原北条氏が降伏した後は、小田原城の接収や鶴岡八幡宮の修繕手配、また検地などを実施しました。続く奥州仕置においても検地やトラブル解決などに尽力しています。

文禄の役(第一次朝鮮征伐)では渡海して兵站任務を担当したほか、晋州城の合戦などに従軍しました。

帰国後は伏見城の普請や国内の検地(文禄検地)、そして文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震の復興事業そして大坂の都市開発などで活躍したそうです。

慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、遺児である豊臣秀頼の補佐役として豊臣政権の維持に尽力しました。

そんな且元の献身ぶりは淀君(茶々)から厚く信頼され「秀頼の父代わりになってほしい」「命ある限り恩義を忘れることはない」と書状に記されるほどだったそうです。

徐々に徳川家康の脅威が豊臣家を脅かす中、且元は淀君・秀頼母子を支えるため奔走するのでした。

しかし懸命の努力もむなしく豊臣家の衰運をとどめることはできず、ついに慶長19年(1614年)10月1日に且元は大坂城から退去を余儀なくされます。

家康と豊臣家の板挟みとなりながら、且元は徳川軍に加勢し、ついには豊臣家の滅亡を見届けることとなったのでした。

そして豊臣家に殉ずるが如く、かねて患っていた咳病をこじらせ、慶長20年(1615年)5月28日に60歳で世を去ったのです。

平野長泰(ひらの ながやす)

平野長泰(画像:Wikipedia)

永禄2年(1559年)生~寛永5年(1628年)5月7日没

秀吉の家臣であった平野長治(ながはる)の三男として、堀田道悦女との間に誕生しました。元服して通称は権平(ごんぺい/ごんべい)、諱をはじめ平野長勝としています。

21歳となった長泰は天正7年(1579年)に父の紹介で秀吉へ仕官し、賤ヶ岳の戦いでは他の七本槍と共に一番槍を果たして河内国に3千石を賜わりました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦では敵に突撃して首級を上げ、二重堀砦では敵を撃退する武功を立てています。

それからしばらく経った文禄4年(1595年)に2千石を加増されて5千石となりましたが、これが長泰にとって生涯所領のピークでした。

慶長3年(1598年)に豊臣姓を賜わり、従五位下・遠江守(とおとうみのかみ)に叙せられています。

同年8月に秀吉が世を去ると、五大老の筆頭格であった徳川家康に従い、慶長5年(1600年)の会津征伐そして関ヶ原の合戦でも家康に従いました。

しかし徳川秀忠(家康嫡男)率いる別動隊に所属していたため、決戦に遅参して間に合わず、これと言った武功を立てずじまいとなっています。

戦後はそのまま秀忠に仕え、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、長泰は「人質にとられている嫡男の長勝を救出するため、大坂へ行かせてほしい」と直訴しました。

あるいは「豊臣家に味方したい」と直訴するも許されず、江戸留守居役として豊臣家の滅亡を知らされることになったのです。

豊臣滅亡後は江戸幕府の旗本として仕え、第3代将軍・徳川家光まで仕えました。そして寛永5年(1628年)5月7日に70歳で世を去ります。

七本槍の中で、唯一大名(1万石以上)になれなかった武将ですが、その9代子孫・平野長裕(ながひろ)は明治時代に入って田原本藩(たわらもとはん。奈良県田原本町)を立てました。

糟屋武則(かすや たけのり)

糟屋武則(画像:Wikipedia)

永禄5年(1562年)生~没年不詳

播磨国の出身ですが、父親については諸説あります。加古川城主の糟屋氏に養子入りし、天正5年(1577年)に播磨攻め中の秀吉へ仕官しました。

小寺官兵衛(倉悠貴)の推挙で秀吉の小姓頭を務め、三木合戦(別所長治討伐)に従軍します。初陣を飾った直後に三木城包囲網の一翼を担うなど、その才覚を早くから認められていました。

やがて天正7年(1579年)に兄の糟屋朝正(ともまさ)が討死したため家督を継ぎ、秀吉の中国攻めに貢献します。

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると秀吉の中国大返しに従い、山崎合戦にも従軍しました。同年10月15日に京都大徳寺で執り行われた信長の葬儀では、秀吉家臣として参列しています。

翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは「金の角取紙(すみとりがみ)のエヅル」の旗指物を目印に、佐久間盛政の家臣である宿屋七左衛門(しゅくや しちざゑもん)を討ち取る武功を立てました。これによって他の七本槍と同じく3千石の知行を拝領しています。

その後は他の七本槍と共に秀吉の馬廻衆として本陣を守り、天正12年(1584年)小牧・長久手合戦や天正15年(1587年)九州征伐、天正18年(1590年)小田原征伐などでも秀吉の警護を担当しました。

他にも武則は実務能力が高かったことで知られており、京都方広寺の作事奉行や太閤検地、蔵入地の代官などを務めています。

秀吉の天下一統後は文禄の役(第一次朝鮮征伐)に従軍し、織田秀信(三法師)率いる九番隊に配属されました。朝鮮半島へ渡航した武則は片桐且元や石田三成らと占領地支配を担当し、現地住民の慰撫などに当たったほか、晋州城攻めでも武功を立てたそうです。

帰国後も実務官僚として活躍し、文禄4年(1595年)の秀次事件では秀次の身柄を自邸に拘束する役目を果たしました。すると事件直後に、なぜか賤ヶ岳の恩賞として6千石を加増され、1万2千石の大名となります。

慶長3年(1595年)8月に秀吉が世を去ると、石田三成らと組んで徳川家康に対抗し、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では三成率いる西軍に与しました。

伏見城攻めに従軍したほか、関ヶ原の決戦では宇喜多秀家の部隊に属して奮闘しますが、敗れて改易(所領を全没収)されたということです。

その後の晩年については、小禄の旗本として召し抱えられたり、既に毒殺されていたりと諸説あります。他にも大坂夏の陣で豊臣家の滅亡に殉じたという説や、元和9年(1623年)8月14日まで生き延びたという説もありました。

加藤嘉明(かとう よしあきら)

加藤嘉明(画像:Wikipedia)

永禄6年(1563年)生~寛永8年(1631年)9月12日没

元は松平元康(徳川家康)に仕えていた加藤教明(のりあき)の長男として誕生します。

父は永禄6年(1563)の三河一向一揆で元康に叛いたため、放浪を余儀なくされました。やがて近江国へ流れ着いた父子は、長浜城主となった秀吉に仕えたと言われます。

やがて元服して通称を孫六(まごろく)、諱ははじめ加藤茂勝(しげかつ)後に嘉明と改名しました。

はじめ羽柴秀勝(秀吉の養子で織田信長五男)の小姓として近侍しますが、天正4年(1576年)の播磨攻めに際して、居ても立ってもいられなかった嘉明は勝手に従軍してしまいます。

これを知った北政所(浜辺美波)は激怒し「主君(秀勝)より先に初陣を遂げようとするとは何事か」と叱責しました。

そしてすぐにも嘉明を追放するよう訴えますが、秀吉はかえってその心意気を賞賛し、直臣に取り立てたそうです。

かくして天正6年(1578年)の別所討伐で初陣を飾り、備中須久毛山(すくもやま。岡山県井原市)の合戦で首級2つを上げる武功を立てました。

その後も山崎合戦(天正10・1582年)に賤ヶ岳の戦い(天正11・1583年)と連戦し、賤ヶ岳では一番槍の武功によって3千石を賜わります。

続く天正12年(1584年)小牧・長久手合戦や紀州攻めに従軍し、翌天正13年(1585年)の四国征伐では小早川隆景(山本浩司)の与力として伊予国の平定に貢献しました。

こうした活躍により、天正14年(1586年)に淡路国の志知城(兵庫県南あわじ市)と所領1万5千石を与えられ、大名となります。

淡路水軍を掌握した嘉明は、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐に淡路水軍を動員し、それぞれ武功を立てました。

秀吉の天下一統後は文禄の役・慶長の役に水軍を率いて参戦し、各地で奮闘したそうです。

そして秀吉の死後は徳川家康と組んで石田三成らと対抗し、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦でも武功を立てました。

これにより10万石が加増され、伊予20万石クラスの大名として藤堂高虎(佳久創)と並び立ちます。共に築城の名手として知られた二人は仲が悪かったそうですが、互いに切磋琢磨したのでしょうか。

慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、豊臣恩顧の大名である嘉明は留守居役として江戸に留めおかれ、翌慶長20年(1615年)に豊臣家の滅亡を見守るよりありませんでした。

寛永4年(1627年)には会津藩43万5500石に転封され嘉明は、それを推挙してくれた高虎と和解したということです。

そして寛永8年(1631年)9月12日、69歳で世を去りました。

脇坂安治(わきざか やすはる)

脇坂安治(画像:Wikipedia)

天文23年(1554年)生~寛永3年(1626年)8月6日没

近江の国人・田附源左衛門(たづけ げんざゑもん)の子として誕生し、脇坂安明(やすあき)の養子となります。

はじめ浅井長政に仕えましたが、天正元年(1573年)に滅亡すると明智光秀(要潤)の与力として丹波攻略で武功を立てました。

その勇猛さは「丹波の赤鬼」と恐れられた波多野家臣・赤井直正(あかい なおまさ)から賞されたほどだったそうです。

やがて安治は秀吉こそ出世頭と見込んだのか、頼み込んで羽柴家臣に鞍替えさせてもらいました。願いが叶った安治は大いに奮励し、三木城・神吉城攻めなどで武功を重ねます。

天正6年(1578年)の三木城攻めでは、秀吉から白輪違紋の入った赤母衣を拝領し、以来輪違(わちがい)を家紋としました。

その後も秀吉に従って各地を転戦した安治は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで一番槍の武功を立てます。また柴田勝政(しばた かつまさ。勝家の養子)を討ち取ったとも言われるそうです。

天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦でも武勲を上げたことから、淡路国洲本に3万石を与えられました。

以降は加藤嘉明や九鬼嘉隆(くき よしたか)らと共に水軍衆を率いて、九州征伐や小田原征伐、そして朝鮮征伐などで活躍しています。

文禄の役(第一次朝鮮征伐)では水軍1,500名を率いて海上輸送を担当したほか、閑山島海戦・釜山浦海戦・熊川海戦・第二次唐項浦海戦・場門浦海戦・永登浦海戦などで奮闘しました。

また陸上作戦にも加わり、第二次晋州城攻めでも活躍しています。

慶長の役(第二次朝鮮征伐)では水軍1,200名を率いて再び奮戦し、漆川梁海戦・鳴梁海戦など海戦のほか、南原城攻略戦・第一次蔚山城防衛戦などでは陸上戦力としても奮闘しました。

こうした武勲により、3千石を加増されて3万3千石を領することとなります。

やがて秀吉が世を去ると、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦でははじめ石田三成率いる西軍に与したものの、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の裏切りに乗じて東軍へ寝返りました。

戦後は減封されそうになりましたが、藤堂高虎のとりなしによって所領を安堵されたそうです。

それからしばらく合戦もなかった慶長14年(1609年)、安治は伊予国大洲(愛媛県大洲市)5万3500石に加増転封されました。これは豊臣恩顧の安治が淡路島に居座っていると、大坂を包囲する上で支障となることが懸念されたためと考えられます。

慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣では次男の脇坂安元(やすもと)を派遣し、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では安本が武功を立てました。

豊臣家の滅亡を見届けた安治は元和元年(1615年)に隠居し、元和3年(1617年)には京都西洞院へ移り住み、出家して臨松院(りんしょういん)と号します。

そして寛永3年(1626年)に73歳で世を去ったのでした。

賤ヶ岳の七本槍・それぞれの末路まとめ

秀吉と七本槍(画像:Wikipedia)

加藤清正:慶長16年(1611年)/病死、暗殺説も(50歳) 福島正則:寛永元年(1624年)/改易され、失意の内に死去(64歳) 片桐且元:慶長20年(1615年)/豊臣家滅亡直後に病死(60歳) 平野長泰:寛永5年(1628年)/徳川家光の時代まで仕える(70歳) 糟屋武則:没年不詳/牢人?大坂の陣で討死? 加藤嘉明:寛永8年(1631年)/病死(69歳) 脇坂安治:寛永3年(1626年)/病死か(73歳)

今回は賤ヶ岳の七本槍について、それぞれの生涯を駆け足でたどってきました。武勇一辺倒の荒武者揃いなのかと思いきや、意外と実務能力に優れる文武両道の名将たちだったのですね。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」にはまだ4名(加藤清正・福島正則・片桐且元・平野長泰)しか登場していませんが、残り3名(糟屋武則・加藤嘉明・脇坂安治)も登場する機会があるのでしょうか。彼らの活躍に、これからも期待したいですね!

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※参考文献:

安藤英男『加藤清正のすべて』新人物往来社、1993年3月 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年1月 高柳光寿ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年10月 福尾猛市郎ら『福島正則 – 最後の戦国武将 -』中公新書、1999年8月 渡邊大門『関ヶ原合戦全史1582-1615』草思社、2021年1月

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