『豊臣兄弟!』豊臣秀長は実は「百万石大名」だった!徳川家康と並んだ秀吉の弟、忘れられた名将の軌跡

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『豊臣兄弟!』豊臣秀長は実は「百万石大名」だった!徳川家康と並んだ秀吉の弟、忘れられた名将の軌跡

実は百万石大名

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目されている豊臣秀長は、兄と同様に農村の家に生まれたとされています。

そんな彼は、のちに豊臣家の中で最上位の家臣へと進みました。……と、ここまでは比較的よく知られた事柄ですが、実は彼が徳川家康と同じ階層に並ぶほどの評価を受ける存在だったことをご存じの方は少ないはずです。

秀長が支配したのは紀伊、和泉、大和の広域で、総石高は、なんと百万石に達していました。

当時この規模に到達した大名はごく少数で、秀長が特別な位置づけにあったことが分かります。今回はその経緯について見ていきましょう。

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豊臣秀長(Wikipediaより)

豊臣政権が形を整えるにつれ、秀長の立場はさらに強まっていきました。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れたことは政権の転換点となり、秀吉は大坂城の建設を進めて全国支配への道を歩み始めます。

天正十二年の小牧・長久手では信雄と家康の連合軍と和解し、秀吉は従三位権大納言に叙任されます。翌年には従一位関白となり、天皇に次ぐ政治的な最高位へと進みました。

この間に秀長は紀伊と和泉を与えられ、そこへ大和と伊賀の一部も加えられます。天正十三年閏八月には石高が百万石へ到達し、彼は名実ともに日本の有力大名の一角を占める存在となったのです。

聚楽第で示された順位

天正十三年当時、百万石以上の領地を持つ大名は全国で数名のみでした。いわば、彼は当時の長者番付(若い人は知らないと思いますが)の上位ランカーだったのです。

秀吉、秀長、家康、毛利輝元がその代表であり、島津義久や上杉景勝を含める説もありますが、いずれにせよ希少な階層です。

彼はもともと秀吉の側近集団の一人として出発しましたが、やがて家康と同じ階層に位置づけられるほどの実力者となったわけです。

その立場を示す材料として、天正十六年の後陽成天皇の聚楽第行幸があります。

聚楽第は秀吉が京都に築いた政庁兼邸宅で、後陽成天皇はここを訪れたのです。天皇が臣下の邸宅を訪れるのは極めて異例のことでした。

『後陽成天皇聚楽第行幸図』(堺市博物館収蔵・Wikipediaより)

行幸は四月十四日から五日間続き、秀吉はここで有力大名たちに誓紙への血判を求めます。

誓紙には関白の命令に従う旨が記されており、要するに「俺の命令に従え」という内容でした。

血判は官位の低い者から押され、前田利家、宇喜多秀家、秀次、秀長、家康、信雄の順となりました。この誓紙上では、秀長は上から三番目の官位だったことになります。

しかし注意すべきは、誓紙上もっとも上位であるはずの織田信雄(信長の次男)は、実際には実力は高くなかったという点です。彼の優れた点はその血筋だけでした。

よって、当時は徳川家康が、最も力を持つ大名とみなされていたのです。そうなると誓紙上は秀長もワンランク繰り上がることになり、彼は全国でもナンバー2の実力だったことになります。当時の彼は、完全に政権の中核を担う人物として扱われていたのです。

忘れられた名将

豊臣秀吉は、全国統一を果たした後は国を秀長へ譲る意向を示しており、自分自身は朝鮮や明国への進出を目論んでいたとされています。朝鮮出兵の予兆はこの時すでにあったのでしょう。

豊国神社の豊臣秀吉像

秀吉の壮大な野望のことはともかく、彼がそのように考えていたのは、秀長が政権運営を任せられるほどの力量を持っていたからに他なりません。

しかし、現代では秀長の知名度は高くありません。重要人物であるにもかかわらず、彼が忘れられていることは不思議ですね。

おそらく、派手な軍功よりも政務に長けていたため、史料上の印象が薄くなってしまったのでしょう。しかし専門家の間では、昔から豊臣秀長という人物の名将ぶりは認識されていました。

豊臣秀長は日本史でも屈指の大名であり、豊臣政権の屋台骨を支えた人物だったのです。

ドラマ化しないと注目されないというのは国民性としてちょっと悔しいところですが、きっかけは何であれ、忘れられた名将を再評価することは歴史の奥行きを知る上でも重要な作業でしょう。

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参考資料:中野明『図解 豊臣秀長「No2」の仕事術: カリスマ秀吉の「右腕」に学ぶ超一流の戦略展開スキル』Gakken、2025年
画像:Wikipedia,PhotoAC

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