【豊臣兄弟!】女性や子供まで大量処刑…なぜ“人たらし”の秀吉(池松壮亮)は残虐な暴君へ変貌したのか

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【豊臣兄弟!】女性や子供まで大量処刑…なぜ“人たらし”の秀吉(池松壮亮)は残虐な暴君へ変貌したのか

豊臣秀吉といえば、一般に「人たらし」「気配りの名人」などと語られることが多い。NHK大河『豊臣兄弟!』でも、明るく人懐っこい一方で、自分の目的を達成するためには強引に物事を進めていく、そんな二面性をもった人物として描かれています。

しかし秀吉の生涯を振り返ると「人たらし」というイメージだけでは、とうてい説明できない苛烈で残虐な行動が見えてくる。それが女性や子どもを含む大量処刑や敵対勢力への過酷な処置です。

こうした事実から、秀吉には残虐な一面があったとする見方も少なくありません。

今回は、秀吉の残虐性を物語るできごとを振り返りながら、その実像について紐解いていきましょう。

豊臣秀吉(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

女性や子どもまで処刑された播磨侵攻をめぐる悲劇

秀吉の残忍さを示すできごとの一つが、播磨攻略戦をめぐる上月城の戦いです。

1577年(天正5年)、織田信長(小栗旬)から中国方面軍の司令官を命じられた秀吉は播磨へ進出し、毛利氏との戦いを本格化させていきます。

その翌年、毛利氏の大軍によって上月城が包囲されると、秀吉は信長に救援を求めました。

これに対し信長は嫡男の信忠、明智光秀、滝川一益、佐久間信盛らの援軍を派遣しますが、織田軍は三木城攻めに固執するあまり積極的な救援を行わず、最終的には上月城は落城してしまいました。

山中鹿介。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

このとき秀吉は、籠城していた尼子勝久(渡邉蒼)、山中鹿介(廣瀬友祐)ら城兵を救えなかったばかりか、一度は播磨からの撤退を余儀なくされます。

この播磨平定戦では『信長公記』には、抵抗する城兵やその家族らが処刑されたことが記されており、備前・美作・播磨の国境付近では、戦闘員だけでなく女性や子どもまで多数の者が磔などにされたと伝えられています。

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戦国時代の合戦では、敵方の処刑そのものは珍しくありませんでした。しかし、女性や子どもまで含む多数の人々を見せしめとして処刑したという事実は、秀吉の残忍さを考えるうえで見逃せません。

播磨攻略戦で人々を処刑する秀吉。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

また播磨侵攻が決着した1580年(天正8年)の三木合戦では、開城にあたり別所長治(下川恭平)の切腹と引き換えに城兵の命を助けると約束しました。

ところが、戦後の処理については、城兵が本当にすべて助命されたのかという疑問も残されているのです。

聚楽第落書き事件。天下人となった秀吉の恐怖

1590年(天正18年)、秀吉は関東の雄・北条氏を降し、事実上の天下統一を果たしました。実はこの前後から、秀吉の残虐性がさらに際立っていくのです。

1589年(天正17年)、秀吉の京都政庁である聚楽第の白壁に、何者かが書いた秀吉を批判する落書が発見されました。これが聚楽第落書き事件です。

激怒した秀吉は犯人捜しを命じますが、ついに真犯人は見つかりませんでした。秀吉は、聚楽第を警護していた家臣17人を職務怠慢とし、鼻削ぎ耳切りにした上で磔刑に処します。

京都聚楽第。『聚楽第図屏風』(Wikipedia)

さらに首謀者と疑われ処刑された尾藤道休(びとうどうきゅう)が暮らしていた、本願寺寺内町の町民63人をくじ引きで選んだうえで磔にして処刑。それでも怒りの収まらない秀吉は、大坂にも詮索の手をのばし最終的には133人を処刑しました。

この事態に『多聞院日記』の筆者の一人興福寺多聞院英俊は、「運次第也、さてさて不憫事也、一向無罪仁共也、アサマシアサマシ」と記しています。

この事件で重要なのは、事実上の天下人となった秀吉にとって、自らの権威を守るためにはどんな苛烈な処置も厭わなかったということです。

かつて「人たらし」と称された秀吉は、いつしか人々を恐怖によって従わせる存在になっていたのです。

関白秀次切腹事件とその一族の粛清

聚楽第落書き事件の6年後、1595年(文禄4年)6月に、人々を震撼させる事件が起きます。

秀吉から関白の座を譲られ聚楽第にいた豊臣秀次(山田涼介)が、突然謀反の罪より高野山へ追放のうえ自害して果てたのです。

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謀反の罪で自害した豊臣秀次。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

しかし秀吉はそれだけでは満足せず、秀次一族の根絶をはかります。

8月には三条河原に晒された秀次の首塚の前で、秀次の遺児(4男1女)と側室・侍女ら40名近くを斬首。数時間かかったとされる処刑が済むと、大量の遺体をまとめて一つの穴に投じるという残忍極まる処置がとられました。

またその累は秀次の家臣や与力大名にまでおよび、多くの人々が斬首・自害・改易などに処されました。そのなかには秀吉の盟友であった前野長康(渋谷謙人)らも含まれています。

秀吉の側室となった淀殿。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

このほかにも朝鮮出兵時には、淀殿(井上和)に仕えていた侍女ら30余人を自分の留守中に、みだらな男女関係があったとして大量に処刑しています。

「人を信じる秀吉」から「人を恐れさせる秀吉」へ

秀吉はなぜ残虐性をおびた人間になっていったのか。ここからは、筆者の私見を述べていきます。

筆者は、秀吉の残虐性は生まれつきの性格というよりも、戦国の権力闘争の中で次第に形成され、強められていったのではないかと考えます。

足軽という身分から急激な出世によって織田家中のトップに躍り出た秀吉。そこには周囲からの警戒や妬みがつきまとっていたはずです。

足軽時代の秀吉。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

それでも秀吉は、卓越した才能で天下統一へと突き進み、やがて自分自身が「絶対的な権力者」になっていきました。

しかし、権力を手に入れたからといって、不安が消えるとは限りません。むしろ低い出自や、身体的特徴などに対するコンプレックスを抱えていたとすれば、権力者としての地位を脅かすものに対してより過敏になった可能性も考えられるのです。

その過程で秀吉の人を惹きつける力は、いつしか人を恐れさせる力へと変質していった。そして自分に逆らう者を容赦なく処罰する残虐性を帯びていったのではないかと考えるのです。

秀吉と秀長。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

『豊臣兄弟!』でも、信長に代わって自分が天下人になると決意した秀吉には、かつての人情味あふれる姿が少しずつ消えていくように感じられます。

これからドラマではその変化をどのように描いていくのか、注目していきたいと思います。

※参考文献
藤田達生著 『秀吉神話をくつがえす』 講談社

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