『逃げ上手の若君』天皇暗殺を企てた公卿・西園寺公宗の悲劇―実弟の密告、妻の目の前で訪れた最期【後編】

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『逃げ上手の若君』天皇暗殺を企てた公卿・西園寺公宗の悲劇―実弟の密告、妻の目の前で訪れた最期【後編】

「週刊少年ジャンプ」にて2021年より連載され、現在TVアニメ第2期も放送中の『逃げ上手の若君』には、数多くの魅力的な人物が登場します。

【前編】に引き続き、建武政権の転覆を狙う公卿・西園寺公宗(さいおんじ・きんむね)を紹介します。

建武政権が樹立されると関東申次の役職は停止。公宗の権勢には陰りが見え始めていきます。しかし公宗は後醍醐天皇と強い繋がりを保ちつつも、北条氏の生き残り・北条泰家を屋敷に匿います。

やがて後醍醐天皇と珣子内親王との間には皇女が誕生。西園寺家の血を引く天皇誕生が叶わずと知った公宗には、思いも寄らぬ計画が…

公宗は何を目指し、何に執着し、どのような結末を迎えたのでしょうか。西園寺公宗の後半生を見ていきましょう。

【前編】の記事はこちら↓

『逃げ上手の若君』わずか16歳で公卿へ!西園寺公宗の栄光と、鎌倉幕府滅亡が狂わせた生涯【前編】

建武政権樹立!その時公宗の地位は揺らぎ始める…

倒幕後、京の都には後醍醐天皇を中心とする建武政権が樹立。天皇の親政による新しい時代が始まろうとしていました。

鎌倉幕府が滅亡したことで、関東申次の役職は停止(事実上の廃止)。公宗は政治的な大きな後ろ盾を失う事態となりました。

関東申次の役職は皇位継承や朝廷の重要事項への関与を可能とする役職でした。それが停止されることは、公宗および西園寺家の朝廷内での発言力の著しい低下を意味していたのです。

ここにおいて、公宗は政治的足場を意識した動きを取り始めます。

元弘3年/正慶2(1333)年6月12日、公宗は権大納言を辞任。これには抗議や政治的な圧迫を避ける意図もあったと思われます。

しかし大叔母である中宮・西園寺禧子との関係もあり、同年8月15日には再び権大納言に復帰。公卿としての地位を保ったかに見えました。

ところが同年10月12日、中宮・西園寺禧子が崩御。公宗がは政治的庇護者を失ってしまいました。

しかし11月には中宮大夫(中宮の世話をする役職)を兼任。次の中宮・珣子内親王(しゅんし・ないしんのう)の生母は、西園寺家出身の西園寺寧子(公宗の叔母)でした。

公宗は辛くも後醍醐天皇との繋がりを維持。しかし以前ほどの政治力は見る影もありません。

そこで自身の不遇な状況を打開するため、ある人間とつながりを持つことを選びます。それは公宗にとって希望と破滅の入り口でもありました。

西園寺家の山荘には、のちの時代になって金閣寺が建った。

後醍醐天皇暗殺計画?持明院と大覚寺統の統一?公宗が選んだ結末は…

政治的地位を回復するため、公宗は建武政権の転覆を計画していきます。

建武元(1334)年、公宗は北条泰家を屋敷に匿いました。泰家は北条高時の弟で、北条得宗家の血を引く人物です。

鎌倉幕府滅亡後、泰家は追われる身の上となっていました。その泰家と旧知であった公宗は、ともに建武政権を倒す方策を練っていきます。

公宗と泰家が計画していたのは、後醍醐天皇の暗殺計画でした。

計画では、後醍醐天皇を西園寺家の山荘(のちの金閣寺こと鹿苑寺)に招いて、そこで亡き者にするというものです。

公宗は日野資名(公宗の妻・日野名子の父)、義弟・日野氏光らにも計画を相談。このうち日野資名は、光厳法皇(公宗の従兄弟)の乳人という立場でした。

計画成功後には、公宗は後伏見法皇(持明院統出身。珣子内親王の父)を擁立しての新帝即位まで考えていたと言います。

実際、当時の建武政権においては内外から不満が蓄積しており、十分勝算があると踏んでいたようです。

しかし公宗はまだ計画に踏み切りません。

当時、叔母・珣子内親王が妊娠。生まれて来るのが皇子であれば、持明院統と大覚寺統、そして西園寺家の血を引く将来の天皇候補者となります。

建武2(1335)年3月、珣子内親王は皇女を出産。ある意味、日本の歴史が定まった瞬間でもありました。

同年4月、公宗は兵部卿(軍事防衛の長官)に叙任。軍権を預かる立場となりました。

公宗は後醍醐天皇とあまり良い関係ではないものの、しっかりと配慮されていたことがわかります。

しばらく練っていた計画ですが、こういう事情もあってか、実行に移せずになっていました。

やがて公宗に運命の日が訪れます。

同年6月22日、公宗による後醍醐天皇暗殺計画が露見。発覚したのは、公宗の弟・公重による密告でした。

武者所から楠木正成と高師直らが出動。公宗ら陰謀に関わった者たちの捕縛にあたりました。

『太平記』では、京で公宗と泰家が挙兵し、東国で北条時行、北陸で名越時兼らが兵を挙げるという全国規模の反乱計画があったともされています。

これらは史料的裏付けはく、公宗の官職や影響力や交友関係から想像されたものでしょう。

これが本当かどうかはともかく、同年に7月に北条時行は信濃で挙兵。一時鎌倉を占領するなどしています。

この中先代の乱の広がりは、公宗のその後を決定づけました。

当初、公宗は出雲国へと流罪が予定されていたようです。しかし北条氏による反乱が危険視され、処分は重い方向に進んで行きます。

8月2日、流罪途中で公宗は名和長年によって処刑。享年26。一目会いたいと訪れた妻・日野名子の目の前での首を斬り落とされたといいます。

ショックを受けた名子はうめき声をあげてその場に倒れ込みました。そしてほどなくして名子は公宗の子である男児を出産。その子はのちに西園寺実俊と名乗り西園寺家を継承していくのです。

近代には、西園寺家からは西園寺公望を輩出。首相となって激動期の日本の政治をリードしています。

足利家の執事・高師直。武者所から公宗捕縛に出動した。

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※参考文献・参考サイト

羽生飛鳥「西園寺家で読み解く『太平記』の時代 関東申次を務めた貴族の実像」 「西園寺公宗」コトバンクHP 渡部裕明「西園寺公宗と日野名子 夫の「斬首」を眼前で見た妻」産経新聞

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