『逃げ上手の若君』時行の叔父も逃げ上手?北条泰家の生涯―最後まで抵抗した鎌倉武士の生き様【前編】

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『逃げ上手の若君』時行の叔父も逃げ上手?北条泰家の生涯―最後まで抵抗した鎌倉武士の生き様【前編】

「週刊少年ジャンプ」にて2021年より連載され、現在TVアニメ第2期も放送中の『逃げ上手の若君』には、数多くの魅力的な人物が登場します。

時行の叔父・北条泰家(ほうじょう,やすいえ)もその1人です。

泰家は鎌倉幕府の執権を輩出してきた北条得宗家に誕生。将来は兄を支えて鎌倉幕府の要職につくことが確実でした。

高時が病で執権職を退くと泰家も後任の候補者の1人となります。

しかし内管領によって執権就任はかなわず、憤激した泰家は出家して政治の世界を去る道を選びます。

やがて後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げ、関東の有力御家人も鎌倉幕府に反旗を翻していきました。

泰家は大将となって出陣。新田義貞と合戦に及び、一度は優位な情勢となりますが…

北条泰家の前半生について見ていきましょう。

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北条得宗家に次男として誕生

北条泰家は鎌倉幕府第9代執権北条貞時の四男として生を受けました。生母は安達泰宗の娘・覚海円成です。

貞時の三男・高時は同母兄にあたり、彼が嘉元元(1304)年の生まれなので、泰家はそれ以降に生まれたのが確実です。

泰家は通称を相模四郎と名乗りました。初名は時利(次いで時興)と名乗ったようで、北条得宗家の「時」の通り字を名乗ることが許されたのがわかります。

通り字を諱に使えるのは、一族の有力者や家督相続候補者として位置付けられた人間です。

元服後には従五位下、左近将監に叙任。朝廷から官位を賜っており、その官途から将来を期待されていたことがわかります。

実際、泰家にはその機会が訪れることとなりました。

正中3(1326)年、兄・高時が病のため執権職を辞職。後任の候補となったのが時利こと泰家でした。

高時と同母兄弟であり、有力な外戚である安達氏が推薦。生母の覚海円成も推しています。

しかし得宗家内部で力を持つ内管領・長崎高資が反対。金沢流北条氏の金沢貞顕を15代執権に据えました。これが世にいう嘉暦の騒動です。

泰家はこれに反発して出家を断行。従う人々が続いて出家するという事態となります。

こうした緊張の中、就任10日余りで金沢貞顕は執権を辞職。赤橋流北条氏出身で引付衆一番頭人の赤橋守時が16代執権となりました。

鎌倉時代末期となると、北条得宗家の血統だけで執権を決めることは出来なくなっています。

代わりに台頭してきたのが御内人の長崎氏であり、ここに幕府の制度疲労が見て取れます。

そしてこの人事の結末が、泰家の人生さえ変えていくこととなります。

北条泰家は北条高時の同母弟として生まれ、執権になる可能性もあった(写真は鎌倉の鶴岡八幡宮)。

倒幕計画発覚!泰家は幕府軍の大将として新田義貞を迎え撃つ

泰家の人生の転機が訪れたのは、朝廷と幕府の関係の変化によってでした。

元徳3(1331)年4月、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚。長崎高貞(高資の弟)が追討使として京へ派遣されました。

後醍醐天皇は京を脱出して笠置山に籠城。これに楠木正成が呼応して赤坂城で挙兵します。

これが世にいう元弘の乱の始まりでした。

鎌倉幕府は鎮圧に手間取り、求心力が大きく低下。やがて有力御家人たちの離反を招くこととなります。

元弘3/正慶2(1333)年5月、御家人・新田義貞が上野国で倒幕方として挙兵。鎌倉を攻めるべく軍勢を南下させます。

泰家は鎮圧軍の大将を拝命。泰家軍は武蔵国方面へと進軍して、分倍河原で副将の桜田貞国と合流します。

『太平記』などでは新田軍を20万、泰家軍を15万と記載。しかしこれは誇張されている数字と見るのが当然です。

実際は両軍それぞれ1万人〜2万人ほどでしょう。それでも当時としてはかなりの大軍であったことは間違いありません。

5月15日、泰家軍は新田義貞の軍勢と衝突。一度は新田義貞を敗走させることに成功します。

しかしこの一度の勝利が泰家軍に油断を生じさせました。

翌16日早朝、幕府側への援軍となるはずだった三浦一族の大多和義勝による裏切りが発生。分倍河原の泰家軍は総崩れとなって敗走しました。

泰家は家臣・横溝八郎による奮戦(横溝は討死)によって逃走に成功。鎌倉に戻ります。

しかし新田義貞の大軍は、すぐそこまで迫っていました。北条一族の命運はもはや風前の灯火となっていたのです。

5月18日、新田義貞が鎌倉に進行を開始。北条方は懸命に防ぐものの、22日に鎌倉内部に乱入を許してしまいました。

泰家の兄・北条高時は菩提寺である東勝寺で一族郎党とともに自刃。北条得宗家および鎌倉幕府はここに滅亡しました。

泰家は自刃することはせず、甥の北条時行(高時の子)を逃がす行動に出ています。この後、時行は御内人・諏訪頼重によって信濃国に落ち延び、同地で潜伏生活を送ることになりました。

この時点で、北条氏の生き残りは追われる身の上となっています。

実際に北条邦時(高時の子で時行の兄)は御内人・五大院宗繁の裏切りによって捕縛。斬首されています。

泰家も捕まれば命の保証はなく、逃亡と潜伏生活を送らざるを得ない状況でした。

結局、泰家は東北地方の陸奥国に逃亡。同国の糠部郡(現在の青森東部から岩手県北部にかけての地域)は北条氏の所領でした。

泰家は南部太郎と伊達六郎が案内者として逃亡。人夫に変装し、粗末な輿に寝たり、新田の負傷兵の帰国を装っての行動でした。

そしてこれらの泰家の行動が、やがて日本の歴史を大きく揺り動かすこととなります。

次回【後編】に続きます。

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