『逃げ上手の若君』時行よりも逃げ上手!叔父・北条泰家が魅せた生存への執着と衝撃の結末【後編】

Japaaan

『逃げ上手の若君』時行よりも逃げ上手!叔父・北条泰家が魅せた生存への執着と衝撃の結末【後編】

「週刊少年ジャンプ」にて2021年より連載され、現在TVアニメ第2期も放送中の『逃げ上手の若君』には、数多くの魅力的な人物が登場します。

時行の叔父・北条泰家(ほうじょう,やすいえ)もその1人です。

【前編】の記事はこちら

『逃げ上手の若君』時行の叔父も逃げ上手?北条泰家の生涯―最後まで抵抗した鎌倉武士の生き様【前編】

鎌倉幕府の滅亡後、泰家は京都に潜入。交流のあった西園寺公宗の元に匿われ、ともに兼務政権の転覆を目指します。

しかし計画は露見して失敗。泰家は再び追われる身となって東国へと逃げ、北条氏の残党に挙兵を呼びかけていきます。

中先代の乱後、泰家は空隙をつく形で挙兵。「先代合戦」と呼ばれる戦で鎌倉入りを果たしますが…

泰家は何を企み、どう逃げ、どのような結末を迎えたのでしょうか。北条泰家の後半生について見ていきましょう。

※逃げ若 関連記事:

『逃げ上手の若君』わずか16歳で公卿へ!西園寺公宗の栄光と、鎌倉幕府滅亡が狂わせた生涯【前編】

西園寺公宗に接近し、建武政権の転覆を企むが…

鎌倉幕府の滅亡後、京の都では建武政権が樹立。諸国の政治を主導する体制が始まりました。

しかし政権の運営は、少しずつ暗礁に乗り上げて行きます。

武士に対する恩賞の沙汰が遅滞する一方、後醍醐天皇に近しい公家には優先的に昇進や土地の分配が行われました。

後醍醐天皇の住まいである大内裏の造営においては諸国への増税も決定。民からの不満も上がり始めていきます。

建武元(1334)年、泰家は身分を隠して京の都に潜伏。旧知の仲である西園寺公宗の屋敷に匿われていました。

西園寺家は代々、関東申次という役職を継承。鎌倉幕府との交渉役として活動してきた家です。

自然、鎌倉の北条氏とは近しい関係を構築。鎌倉幕府滅亡後には西園寺公宗は権大納言の職を一時停止されるなど処分されています(のち復帰)。

西園寺公宗にとって幕府滅亡は、自身の権力と立場の喪失を意味していたのです。

建武2(1335)年6月、公宗は泰家ら北条氏の残党と連絡を取り合い、復権を画策。計画されたのが、後醍醐天皇の暗殺計画でした。

2人は西園寺家の山荘(のちの金閣寺こと鹿苑寺)に招いて殺害し、後伏見法皇を擁立して重祚(天皇経験者の再度の即位)させることを目論みます。

しかし計画は公宗の弟・西園寺公重の密告で露見。武者所から楠木正成と高師直が派遣されて、公宗は捕縛されてしまいました(のちに殺害)。

泰家は追撃の手を逃れて逃走。諸国の北条氏残党に武力蜂起を呼びかける行動に出て行くことになるのです。

やがて泰家は、諏訪頼重によって匿われていた甥の北条時行にも会いに行ったと考えられます。

建武2(1335)年7月14日、北条時行は頼重や海野氏、滋野氏ら信濃国の武士たちに擁立される形で挙兵。信濃国の守護・小笠原貞宗と戦いながら鎌倉を目指します。

世にいう中先代の乱の始まりです。

一連の戦で信濃国においては清原信濃守が自害。貞宗の守護所も攻撃されるなど、甚大な被害が出ています。

7月20日ごろには、時行軍は武蔵国で鎌倉将軍府の軍勢を撃破。渋川義季岩松経家今川範満らが討たれています。

鎌倉将軍府の執権・足利直義足利尊氏の弟)は井手の沢で時行軍を迎撃。敗れると鎌倉を逃れています。

7月25日、時行軍は鎌倉を制圧。一度滅んだ北条氏が再び息を吹き返した瞬間でした。

しかし足利尊氏が関東に下向して直義と合流すると状況は一変。時行軍は敗北を喫し、諏訪頼重は勝長寿院で自害して果てました。

風雲急を告げる時代の中で、次々と英雄たちが火花を散らしていきます。

泰家と公宗は、西園寺家の山荘(のちに金閣寺が立つ)で後醍醐天皇を亡き者にしようと画策していた。

北条泰家ここにあり!ついに果たした念願の鎌倉入りの真実とは?

鎌倉奪還後、足利尊氏に建武政権から帰還命令が発出。しかし尊氏はこれを無視したため、京の建武政権との対立が深まっていきました。

尊氏を危険視した後醍醐天皇は新田義貞に追討を命令。逆に尊氏は義貞を破り、建武3(1336)年1月に京の都へ進出します。

このとき、奥州から陸奥鎮守府将軍・北畠顕家が5万の兵を率いて西上。尊氏は北畠軍に大敗を喫して九州へと落ちて行くこととなりました。

そしてこの間、泰家は虎視眈々と牙を研いでいたようです。

建武3(1336)年2月、信濃麻績御厨で泰家が挙兵。『市河文書』には「先代高時一族大夫四郎」と書かれており、この「大夫四郎」こそが、官職や通称などから泰家のことだと推定されます。

泰家軍には、丹波右近大夫(時継という人物)や凶徒とされる深志介知光らが参加。仲間を集めた上での挙兵だったと考えられます。

2月15日、泰家軍は麻績や十日市場付近で村上信貞の軍と衝突。信濃国守護・小笠原貞宗の軍勢とも戦うなど戦線は広がっていました。

泰家軍は信濃国から関東へと進出。やがて泰家の故郷である鎌倉へと進軍していきます。

このとき、鎌倉は足利義詮(尊氏の嫡男。のちの室町幕府2代将軍)が統治。斯波家長が補佐する形で関東を足利方の支配統治に置いていました。

同年3月、鎌倉周辺でも「先代合戦」と呼ばれる北条氏系勢力による戦闘が勃発。「先代」とは「北条高時」のことを指しており、それに近しい泰家らによる合戦と見ることができます。

つまり泰家は2月に放棄して3月には鎌倉まで進出。時行に続く形で再び北条による鎌倉入りを果たした可能性があるのです。

しかし斯波家長や相馬氏の軍勢に阻まれ、最終的に泰家軍は敗北したと考えられます(歴史資料で確認できる泰家の足跡は、同年2月までの戦いです。ここから泰家の確実な消息は途絶えています)。

ある意味、時行よりも逃げ上手の泰家でしたが、最後の最後で足利方と正面から戦い、そして歴史の渦の中へと消えていきました。

泰家は戦うべき時まで生き延び、戦うべき時に戦い、そして消えていった。泰家の生き様からは、武士というより1人の人間としての姿が浮かび上がってきます。

※逃げ若 関連記事:

『逃げ上手の若君』わずか16歳で公卿へ!西園寺公宗の栄光と、鎌倉幕府滅亡が狂わせた生涯【前編】

『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【前編】

※参考文献・参考サイト

鈴木由美『中先代の乱―北条時行、鎌倉幕府再興の夢』 中央公論 2021年 北条氏研究会 『北条氏系譜人名辞典』 新人物往来社 2001年 東京大学SHIPS Image Viewer 「市河経助軍忠状」長野県立歴史館HP

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「『逃げ上手の若君』時行よりも逃げ上手!叔父・北条泰家が魅せた生存への執着と衝撃の結末【後編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、斯波家長小笠原貞宗北条泰家西園寺公宗逃げ若カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る