日本人は「なぜ」「いつから」漢字を使うようになった?東アジアの動乱と日本の文字文化のルーツ
漢字の伝播
日本人が漢字を使うようになった経緯を知るには、中国だけでなく朝鮮半島の歴史を見る必要があります。
実は日本の文字文化は、東アジアの大きな政治変動とも深く結びついていました。
大きな転機となったのが、紀元前108年の漢による朝鮮支配です。漢の武帝は朝鮮を制圧し、現地に四つの郡を置いて支配しました。
その中でも長く残ったのが楽浪郡です。漢が220年に滅びたあとも楽浪郡は存続し、313年に高句麗によって滅ぼされるまで、朝鮮半島に中国の政治や文化を伝える拠点となっていました。
ここで重要なのが、楽浪郡で働いていた中国人です。彼らは漢代の紀元前1世紀に朝鮮へ移住した人々の子孫で、漢字を読み書きする技術・能力を持っていました。
ところが313年に楽浪郡が滅びると、彼らは新たな生きる場所を求めることになります。
とはいえ中国ではすでに漢が滅んでいました。彼らは朝鮮半島で兵士や農民になるよりも、自分たちの持つ漢字関係の技術・能力を生かす道を選んだようです。
そうして彼らのスキルは朝鮮半島内で百済や新羅へ伝わり、さらに海を越えて倭のヤマト政権にも伝わったと考えられています。
しかも伝わったのは文字だけではありませんでした。文字が伝わるということは、文字に寄って明文化されているルールや思考も伝播することを意味します。
そうして国家を作る方法や外交に関する知識も一緒に伝わり、朝鮮半島や倭の国づくりにも影響を与えたのです。
つまり、日本の漢字文化を考えるとき、中国から日本へ直接伝わったとだけ考えるのは適切ではありません。中国の文字文化が朝鮮半島を経由して倭へ伝わった流れが重要なのです。
以下では、もう少し当時の流れを詳細に見ていきましょう。
外交と漢字楽浪郡が313年に滅びたあと、朝鮮半島では国家形成が進みました。百済と新羅が史料に登場するのも、この時期からです。
一方、中国では、ご存じの通り漢の滅亡後に魏・蜀・呉が争い、その後は司馬炎が建てた晋も勢力を失いました。さらに北方の遊牧民が南へ移動し、五胡十六国と呼ばれる諸勢力が中国北部を支配するようになります。
こうして中国は南北朝時代へ入りました。北では鮮卑の拓跋部が建てた北魏が、南では漢民族の宋が勢力を持っていたのです。
この時代、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅は、中国との外交を積極的に行いました。北魏にも南朝の宋にも朝貢使を送り、外交上の礼を示すことで侵略を避けようとしたのです。
ここで重要になるのが漢字でした。中国と外交を行う以上、相手に意思を伝えるための文字や知識が必要だったからです。
倭もこの外交関係とは無縁ではありませんでした。南朝の宋には5人の倭王、いわゆる「倭の五王」が朝貢した記録があり、その内容は歴史書の『宋書』に残されています。
その5人のうちの一人が倭王武です。武が南朝の皇帝へ送った上奏文は、完成度の高い漢文で書かれていました。
この事実から、当時の倭に既に漢字を使える人が存在していたことは分かります。
ただし、これだけですぐに、古代日本人が高度な漢文を自由に書けたと考えることはできません。
かつてはこの上奏文を根拠に、古代日本人が早くから優れた漢文能力を持っていたとする見方もありました。しかし現在では、楽浪郡に由来する中国人が代筆したとする説が有力です。
日本への定着では、漢字はどのように日本へ根づいていったのでしょうか。
史料から分かるのは、当時は朝鮮半島と倭の間で文字や政治、外交に関する知識が頻繁に行き来していたという事実です。
特に重要なのが、楽浪郡にいた中国人でした。彼らは漢字を使う高度な技能を持ち、その知識を百済・新羅・倭へ伝えたと考えられています。
おそらく漢字は、外交や国づくりに必要な知識と一緒に伝わったのでしょう。
さらに589年には、中国で隋が全土を統一しました。高句麗・百済・新羅が勢力争いを続ける朝鮮半島にとって、中国の再統一は大きな緊張を生む出来事でした。
こうした国際情勢の中では、漢字を使って外交文書を作る能力も重要になったでしょう。倭も中国や朝鮮半島と関係を持っていた以上、漢字による情報伝達と無関係ではいられませんでした。
現代日本で英語が重要視されているのと同じですね。
漢字は海を越えて突然現れたのではなく、東アジアの政治と文化が交わる中で少しずつ日本へ広がっていったのです。
ただ、その伝来の経緯を日本史上の出来事に限定して見ると、その背景は分かりくくなります。漢・楽浪郡・高句麗・百済・新羅・倭という広い地域のつながりを追っていくことで、その経緯と背景はより鮮明になるのです。
参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia
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