「仙境のナイチンゲール」志田周子——雪深い“医者のいない村”を支え続けた女性医師の生涯【前編】

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「仙境のナイチンゲール」志田周子——雪深い“医者のいない村”を支え続けた女性医師の生涯【前編】

皆さんは仮に、「3年でいいから、村に帰ってきてくれないか」

父親から、そんな頼みを受けたらどうするでしょう。しかも、そのとき自分は東京にいる。医学を学び、これから医師として仕事をしていこうとしている。東京には病院がある。医師として経験を積む道もある。それなのに帰ってきてほしいと言われたのは、山形県の山深い村でした。

今回取り上げたいのは、そんな人生を歩んだ女性です。その名は、志田周子(しだ・ちかこ)。

1910(明治43)年、10月28日、山形県西村山郡左沢町、周子は、現在の大江町に生まれました。後に「仙境のナイチンゲール」と呼ばれる女性医師です。

ただし、最初から「故郷のために一生を尽くそう」と決めていたわけではありません。むしろ、若いころの周子は、山形から東京へ出て医学を学ぶ、かなり行動力のある女性でした。

左側が志田周子。NHK仙台制作グループ『近代東北庶民の記録 下』より

村で初めての女学校生

周子の父・荘次郎は小学校の教員でした。その後、大井沢村の村長も務めています。母は、せい。その長女として生まれた周子は、大井沢尋常小学校で学んだ後、山形県立山形第一高等女学校へ進みました。現在の山形県立山形西高等学校です。

ここで、周子についてよく知られている話があります。それは、村で初めての女学校生だったということです。

今なら、女の子が高校へ進学することは特別なことではありません。けれど、周子が生まれたのは1910(明治43)年。女学校へ進んだのは大正時代です。山深い大井沢から山形の女学校へ進む。それだけでも、当時としては目立つ存在だったのでしょう。

「村の女の子が女学校へ行く。」

周子は、そんな道を選びました。そして、さらにその先へ進みます。

東京へ、そして医学の道へ

1928(昭和3)年、周子は東京女子医学専門学校へ進学しました。現在の東京女子医科大学につながる学校です。山形の山村から東京へ出て、医学を学ぶ。

昭和の初め、女性が医師になることは、今ほど当たり前のことではありませんでした。まして、地方から東京へ出て医学を学ぶとなれば、本人の意志だけでなく、家族の理解も必要だったはずです。

1933(昭和8)年、周子は東京女子医学専門学校を卒業。医師としてのキャリアを歩み始めます。ここまでを見ると、そのまま東京で医師を続けていても不思議ではありません。ところが、故郷から声がかかります。

「帰ってきてほしい」。

父・荘次郎からの頼みでした。大井沢には医師がいなかった当時の大井沢村は無医村でした。現在の西川町大井沢です。山深い土地で、冬になれば雪に覆われる。病気になったからといって、すぐに病院へ行けるような場所ではありません。医師がいないということは、村で暮らす人たちにとって、それだけで大きな不安だったでしょう。父が娘に戻ってきてほしいと頼んだ背景にも、こうした事情がありました。

周子が大井沢へ戻ったのは、1935(昭和10)年のこと。26歳のときです。このとき、父との間には「3年でいいから」という約束がありました。もともとは、「3年だけ」。そのつもりで帰ってきたのです。

26歳の女性医師が、村で一人

大井沢へ戻った周子は、村で唯一の医師となりました。今のように、体調が悪ければ車で病院へ行ける時代ではありません。患者のところまで医師が出向くこともあります。往診です。

雪の中を歩いたこともあったでしょう。道が悪い日もあったでしょう。それでも、病人は待ってくれません。医師が一人しかいないのですから、周子が診なければならない患者は次々にやってきます。

26歳の女性が、村の医療を背負う。簡単な仕事ではありません。しかも、東京で医学を学んだばかりです。都会で身につけた知識や技術を、今度は雪深い山村で使っていくことになりました。

1938(昭和13)年。父親との約束だった3年が過ぎました。では、周子は東京へ戻ったのか。結論から言うと、戻りませんでした。ここから、志田周子の人生は大きく変わっていきます。「3年間だけ」のはずだった大井沢で、そのまま医師を続けることになったのです。

なぜ残ったのか。残された文献を見ていくと、周子は、村人たちにとって欠かせない存在となっていたことがわかります。ですが、ここで「村人のために人生を捧げた」という言葉だけで片付けてしまうのも、少し違うように思います。

最初は3年のつもりだった。ところが、患者を診る。その患者の家族とも顔を合わせる。村での暮らしにも慣れていく。そうしているうちに、いつしか「3年たったら東京へ戻る」という予定そのものが遠くなっていった。

人生には、そういうことがあります。大きな決断をしたつもりはなくても、目の前のことを一つずつ続けているうちに、気がつけば自分のいる場所が変わっている。周子の場合、それが26年間続いたということです。

次回【後編】に続きます。

トップ画像:NHK仙台制作グループ『近代東北庶民の記録 下』より。左側が志田周子。

参考

志田周子(しだ ちかこ)僻地医療に生涯を捧げた女医 大井沢に輝いた志田周子の生涯 志田周子先生歌碑 志田周子「無醫村醫の生活記錄」日本女医会雑誌発行所『日本女医会雑誌 (112)』( 1943) NHK仙台制作グループ『近代東北庶民の記録 下』(1973) 山形県生涯学習人材育成機構 編『新アルカディア叢書 第8集 山形の人 1』(1994)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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