300人で8500人を返り討ち!『逃げ上手の若君』瘴奸モデル・平野将監の絶望的な籠城戦と悲劇の結末【後編】
「週刊少年ジャンプ」にて2021年より連載され、現在TVアニメ第2期も放送中の『逃げ上手の若君』には、数多くの魅力的な人物が登場します。
主人公・北条時行を追い詰める悪党・瘴奸(しょうかん)もその1人です。モデルとなったのは、鎌倉末期に実在した悪党・平野将監入道(ひらのしょうげんにゅうどう)です。
【前編】の記事はこちら↓
『逃げ上手の若君』貴族の血を引く反逆者!悪党・瘴奸の実在モデル・平野将監の生涯【前編】倒幕の戦が始まると、将監は本格的に正成とともに共闘。しかし幕府は倒幕軍を鎮圧すべく次々と強大な武士団を差し向けてきます。
上赤坂城での籠城戦が始まり、将監配下の城兵は少しずつ疲弊。やがて将監は、生き残るために最後の賭けに出ますが…
将監はどのように戦い、どのような結末を迎えたのでしょうか。
平野将監の後半生について見ていきましょう。
西国悪党の惣領格・平野将監入道。鎌倉幕府に抗い,歴史に名を残した。
命がけの城取り合戦勃発!将監は大軍勢の守る四天王寺に攻めかかる倒幕の戦は、すぐに諸国に波及したわけではありません。
楠木正成は下赤坂城で挙兵しますが、城は幕府軍によって包囲。陥落後に正成は行き方しれずとなります。
後醍醐天皇は捕縛されて隠岐国に流され、倒幕の戦は終結したかに見えました。
しかし元弘2年/正慶元(1332)年、楠木正成は再度挙兵して赤坂城を奪還。わずか半月の間に和泉国と河内国南部を席巻したといいます。
六波羅探題は四天王寺に城郭を構築。正成の進撃を止めるべく動きます。
このとき、楠木正成に合力して動いたのが将監でした。
元弘3年/正慶2(1333)年1月19日公家・四条隆貞を旗頭とした、将監と正成らの軍勢500騎は六波羅探題代官らの軍勢5000騎(諸説あり)と対峙します。
将監と正成らのほとんどは雑兵で、平地での戦を苦手としています。一方の六波羅探題側は多勢であり、しかも騎馬を主力としていました。
将監らの勝ち目はかなり薄い戦であり、しかも四天王寺を攻める立場という不利なものです。
戦いは午前10時ごろに始まり、深夜まで及びました。
将監は弟3人とともに参加しており、このうち四弟・平野孫四郎はが戦死を遂げています。
絶望的な戦況ながらも、最後に将監と正成たちは勝利を獲得。四天王寺を陥落させることに成功しました。
そしてこの戦は、平野将監という名前が歴史の表舞台に現れた最初の戦でもあります。
しかし将監と正成に勝利の余韻に浸る余裕はありません。
すぐに幕府方は宇都宮高綱(公綱)率いる「紀清両党」の500騎を差し向けて来ます。
22日、将監らはすぐに撤退を決断。四天王寺を明け渡して、次の戦いへと備える道を選ぶのです。
鎌倉幕府の大軍勢襲来!上赤坂城での過酷な籠城戦の結末とは…
西国での倒幕軍の快進撃は、鎌倉幕府の支配体制を大きく揺るがします。
鎌倉幕府は大軍を西国に向けて派遣。本格的に倒幕側を討伐するように動いていきます。
将監は楠木正成と共同戦線を展開して幕府軍を迎撃しています。
元弘3年/正慶2(1333)年2月22日、上赤坂城(楠本本城)に主将として入った将監は、楠木正季(正成の弟)を副将として布陣。正成の千早城、護良親王(後醍醐天皇の皇子)の吉野城の3ヶ所で連携を強めての籠城でした。
『太平記』などでは、楠木正成の活躍が多く語られがちです。
しかし幕府軍が実際に主戦場と想定していたのは、将監が立て篭もる上赤坂城でした。
幕府は上赤坂城攻めに大手総大将・阿蘇(北条)治時を派遣。千早城と吉野城攻めには、副将である搦手大将の大仏高直と名越宗教が配置されています。
将監の配下は多くても300人程度。対して上赤坂城を囲む幕府軍は8500人いたとされます。
戦いは熾烈を極めますが、将監たちはよく持ち堪えて抵抗を継続。敵勢のうち1800人程度の死傷者を出すほどの健闘を見せます。
当時の鎌倉武士たちは、騎兵を主力として、長大化した大型の太刀を用いて戦っていました。
当然、雑兵が多い将監たちにとって正面からの戦いは不利です。
この戦力差を覆すために考案されたのが、弓矢と上赤坂城の地形です。
当時の弓矢は射程距離が大幅に向上しており、強度を増した遠方射撃が可能となっていました。
加えて上赤坂城は騎兵が稼働しにくい設計で構築されており、十分に鎌倉武士たちの力を発揮できなようになっていました。
しかし衆寡敵せず、やがて上赤坂城に限界が訪れます。
すでに将監の配下のうち討ち死が70人、手負いは200人を超えていました。残るのは30人程度です。
時期は不明ですが、副将の楠木正季は上赤坂城を脱出して正成の千早城に合流。これは将監が逃したものとも思われます。
『太平記』によると、落城を悟った将監は幕府方と交渉。赤橋右馬頭(阿蘇治時を指すか)から助命と本領安堵の約定を取り付けたとされます。
しかし軍奉行の長崎九郎左衛門(長崎師宗)は約定を反故にして捕縛。降伏した将監ら30人は、六波羅探題に身柄を引き渡され京の六条河原で処刑されたといいます。
しかし史料上は、投降後の消息についてはわかっていません。
『逃げ上手の若君』の瘴奸のように、実際は生き残っていた可能性も排除することはできないでしょう。
確実に言えることは、平野将監という悪党が西国で立ち上がり、幕府軍を苦しめ凧とで、のちの倒幕実現へとつながる道筋ができた、ということです。
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