織田信長は本当に「宗教嫌い」だったのか? 延暦寺焼き打ちと安土宗論から見えてくる「意外な線引き」
信長と宗教
織田信長と宗教の関係について考える際、まず思い浮かぶのが一五七一年の比叡山延暦寺焼き打ちでしょう。
あまりにも有名な事件ですし、信長は合理主義者だった人としても有名なので、彼を宗教嫌いの人物と考える見方も少なくありません。
しかし、彼の宗教政策を一つずつ調べると、そう一概には言えなくなってきます。
※関連記事:
時の権力者に屈服せず武装化!源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【前編】 戦国時代、織田信長の「比叡山焼き討ち」本当の理由は宗教弾圧ではなく“脱税の摘発”だった!?信長が敵視したのは宗教そのものではなく、自分に敵対する宗教勢力だったと考える方が実態に近いでしょう。
まず、信長が特定の宗教を信仰していたという確かな史料はありません。
信長がキリスト教の影響によって神社や寺を破壊したという説もありますが、どちらかというとトンデモ説です。確かに彼はキリスト教に関心を示して西洋の文化や文明を学びましたが、信者になったわけではありません。
むしろ注目すべきなのは、安土で行われた法華宗と浄土宗の宗論です。信長は両宗派の論争を開かせ、その結果は浄土宗の勝利となりました。
これは一見すると、どちらの教義が正しいかについて、決着をつけさせたように見えます。
しかし大切なのは、この宗論の前に、法華宗側が浄土宗に論争を仕掛けて騒動を起こしている点です。信長が問題視したのは教義の正しさよりも、領内で宗教対立が政治的な争いへ発展することだった可能性があります。
この宗論の結果を踏まえて、信長は法華宗に対して、他宗を論難しないよう命じています。そして、従わなければ法華宗信者を皆殺しにすると警告したのです。
さらに彼は、そのうえで起請文を書かせていますが、重要なのは法華宗そのものを禁止したわけではない点です。
延暦寺攻撃の理由では、なぜ比叡山延暦寺は攻撃されたのでしょうか。ここでは一五七一年九月という時期を確認する必要があります。
このころ信長は、足利義昭が進めた「打倒信長」の動きにさらされていました。
京都周辺では松永久秀や石山本願寺も挙兵しており、比叡山まで敵側につけば軍事的な危険はさらに増すおそれがあったのです。
比叡山は京都と近江の境界にある八百数十メートルの山で、古くから京都を守る戦略上の要地でした。延暦寺が敵軍に利用されれば、信長にとっては宗教問題を超えた軍事上の問題になります。
そこで信長は焼き打ちの前に延暦寺へ手紙を送り、浅井・朝倉軍に比叡山を利用させないよう求めました。しかし延暦寺は要求を受け入れませんでした。
その結果、信長は延暦寺を敵勢力と判断し、攻撃へ踏み切ります。焼き打ちの背景には、少なくとも宗教弾圧ではなく軍事上の判断もあったと見ることができるでしょう。
ちなみに、この延暦寺の焼き討ちもその残虐さが強調されて後世に伝わっていますが、実際にはそれほどでもなかったという説もあります。
敵か味方か信長が一向宗と激しく戦ったことも、宗教嫌いという印象を強めています。長島一揆は一五七〇年から一五七四年まで続き、最後の総攻撃ではほぼ二万人の門徒が殺害されました。
石山合戦でも、一五七〇年から一五八〇年まで石山本願寺との戦いが続いています。ここだけを見るなら、信長が宗教勢力にきびしい人物だったという印象が強くなるのは無理もありません。
ところが石山本願寺との戦いでは、異例の判断も示しています。信長が優勢になったところで本願寺が妥協を求めたところ、正親町天皇の勅命によって講和を成立させたのです。
そして本願寺のトップである顕如は大坂を退去しました。信長は、情勢を見て、最後まで戦い続ける必要はないと判断したのでしょう。
これは信長が宗教勢力を一律に攻撃していたわけではないことを示しています。温和な宗教団体として活動するだけなら干渉しませんが、そのかわり敵対すれば軍事的な脅威として対処するという線引きをしていたのです。
したがって、信長=宗教嫌いという単純な図式だけでは、彼の行動原理は説明できないのです。
戦国時代の宗教勢力は、大きな政治力と軍事力を持っていました。信長は宗教への好き嫌いよりも、それが自分の敵か味方かを重視していたと考えるのが自然でしょう。
※関連記事:
時の権力者に屈服せず武装化!源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【前編】 戦国時代、織田信長の「比叡山焼き討ち」本当の理由は宗教弾圧ではなく“脱税の摘発”だった!?参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

