河合優実主演、朝ドラ『ほんのモキチ』ヒロインモデル・斎藤輝子──夫・茂吉との愛憎と波乱の生涯 (3/5ページ)

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やがて輝子が9歳となった明治38年(1905年)に茂吉と内縁関係になり、正式に結婚したのは大正3年(1914年)4月のことでした。

この間に輝子は皇族や華族出身者が通う女子学習院(東京都新宿区)を卒業しており、クラスメイトには近衛千代子(近衛文麿妻)や徳川千枝子(徳川好敏妻)、二荒擴子(ふたら ひろこ。擴子女王)などがいます。

かくして結婚した輝子と茂吉ですが、新婚当時から不仲だったそうです。当人たちの合意よりも、父親の意向による、いわば政略結婚だったのでしょう。

それでも大正5年(1916年)に長男の斎藤茂太(しげた)をはじめ、大正14年(1925年)に長女の斎藤百子(ももこ)、昭和2年(1927年)に次男の斎藤宗吉(そうきち。北杜夫)、昭和4年(1929年)に次女の斎藤晶子(昌子とも)と四子を出産しています。

やがて茂吉が仕事で単身赴任するようになると、輝子も現地に呼ばれたり、あるいは喧嘩別れで東京に戻ったりを繰り返しました。何をやってるんでしょうね。

スキャンダルそして世界各地を旅行

大正12年(1923年)に関東大震災が起こった時は茂吉が海外留学へ出ており、留守を預かる輝子は父が経営する青山脳病院(東京都港区)を守りました。

その時は何とか無事だったものの、翌大正13年(1924年)に茂吉と合流するためヨーロッパ(イギリス・オランダ・スイス・イタリア等)を遊歴し、帰国してみると失火により病院が全焼してしまったそうです。

帰国後の輝子は夜遊びを覚えたようで、演劇や音楽会、映画などに出かけては紀一や茂吉から叱責されました。まだ母親恋しい年ごろの茂太は放置され、不憫でなりません。

輝子の不行跡はそれだけにとどまらず、昭和8年(1933年)にはダンスホール事件(不良華族事件)に巻き込まれます。

ダンスホール事件とは、ダンスホール「フロリダ」のダンス講師であった小島幸吉(こじま こうきち)が複数の女性たちと性的関係を持った事件でした。

茂吉はこれに激怒し、以後12年間にわたって別居生活を送ることとなります。輝子は弟の斎藤西洋(せいよう)宅へ居候させてもらったそうです。

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