【豊臣兄弟!】徳川四天王の背後にいた「徳川十六神将」とは?秀吉を震え上がらせた“陰の最強軍団”

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【豊臣兄弟!】徳川四天王の背後にいた「徳川十六神将」とは?秀吉を震え上がらせた“陰の最強軍団”

『豊臣兄弟!』第34回「最強のライバル」は、徳川家康(松下洸平)が豊臣(羽柴)家との最初の戦いとなる、小牧・長久手の戦いの序章ともいえる展開でした。

羽柴秀吉(池松壮亮)の招きに応じ、後継ぎの長丸(日影琉叶)を人質に出すことを了承した家康ですが、浜松に戻るとそれを覆し、「打倒秀吉」に立ち上がります。

そして家康の前に参じたのが、酒井忠次(天野ひろゆき)・本多忠勝(夏生大湖)・榊原康政(栗原類)・井伊直政(阿久津仁愛)を先頭にした徳川四天王をはじめとする、三河武士たちでした。

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今回は、語られることの多い徳川四天王はもとより、家康の天下取りを支えた家臣たちとして、後世に選ばれた16人の武将、いわゆる「徳川十六神将」についてお話ししましょう。

徳川十六将図/狩野秀信画(文化庁)

徳川家にもあった集団肖像画「十六神将」とは

戦国武将を頂点として、その中心的な家臣たちを一幅の絵の中に並べて描いた集団肖像画(武将図)を、見たことがある読者の方は多いのではないでしょうか。

なかでも、武田信玄とその家臣たちを描いた『武田二十四将図』は有名ですよね。ほかにも、秀吉とその家臣たちを描いた『羽柴二十四将図』や上杉謙信と有力武将を描いた『上杉八将図』や、などが知られています。

『豊臣兄弟!』第34回「最強のライバル」では、「打倒秀吉」の決意を固め、出陣の触れを出した家康の前に、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の徳川四天王をはじめとする諸将たちが現れました。

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画面のテロップには四天王の名前しか出ませんでしたが、その背後に続く者たちも含め、屈強な三河武士が勢揃いしたという雰囲気に満ち溢れていましたよね。

出揃った徳川四天王(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

実は徳川家にも、家康の主だった家臣たちを描いた集団肖像画があり、それが『徳川十六神将図』と呼ばれています。

そこには徳川四天王のほかに12名の武将が選ばれていますが、その顔ぶれは一定しておらず、図によって異なっているのです。

ただ、その大部分は三河時代からの家康の家臣で、戦場で活躍した武功派の武将たちであるともいわれています。

また、ほかの集団肖像画と異なる特徴として、「十六神将図」のように「神」の文字が用いられている点が挙げられます。

これは、家康が死後に「東照大権現」の神号を持つことから、家康を権現として仰ぎ、仏教における「四天王」と「十二神将」の数字を合わせて「十六神将」としたものとも考えられています。

また、日光山輪王寺によると、東照大権現の本地仏は薬師如来であり、その眷属が十二神将であることから、これに四天王を加えて「十六神将図」としたともされているのです。

東照大権現像/徳川記念財団蔵(Wikipedia)

このように「十六将」に「神」の文字が付く背景には、やはり家康の神格化が関係していると考えられるのではないでしょうか。

ちなみに秀吉も、死後には「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」として神格化されました。しかし、豊臣家滅亡後、その神号は家康によって剥奪されてしまいました。

集団肖像画が描かれたのは江戸時代とされています。秀吉の神号が復活するのは明治に入ってからで、そのため『羽柴二十四将図』には、神の文字が使われないと考えられるのです。

四天王以外の12将の面々とは

ではここからは、徳川四天王以外の代表的な12将を紹介しましょう。ただし、今回はひとり一人については簡単な紹介にとどめ、別の機会にこまかくお話をしようと思います。

大久保忠世(Wikipedia)

●米津常春(よねきつねはる/1524~1612年)
生涯において戦功は18度、一番槍13度を数える武勇の人。馬廻りで3千石を領した。

●高木清秀(たかねきよひで/1526~1610年)
織田家重臣佐久間信盛に仕えた後に家康に臣従し5千石を領有。子孫は河内丹南藩主。

●内藤正成(ないとうまさなり/1528~1602年)
弓矢の腕に関しては並ぶ者なしといわれた名手で、5千石を領した。

●大久保忠世(おおくぼただよ/1532~1594年)
信玄をして「おそろしき敵かな」と言わしめた。相模小田原4万5千石を領有。

●大久保忠佐(おおくぼただすけ/1537~1613年)
信長からも武勇を称賛された勇将で生涯無傷と伝わる。駿河沼津2万石を領有。

●蜂屋貞次(はちやさだつぐ/1539~1564年)
吉田城攻めで本多忠勝と先陣を争うも若くして討死。三河六名城主。

●植村家存(うえむらいえさだ/1541~1577年)
家康の家老で信玄に「一世の豪勇」と称された。子孫は大和高取藩主となる。

●鳥居元忠(とりいもとただ/1539~1600年)
関ヶ原合戦の伏見城籠城戦で討死「三河武士の鑑」とされる。下総矢作藩祖。

●鳥居忠広(とりいただひろ/1532~1573年)
元忠の弟とされる。三方ヶ原の戦いで殿を務めて討死。子孫は小田原藩士となった。

●渡辺守綱(わたなべもりつな)/1542~1620年)
「槍の半蔵」の異名をもつ。尾張藩主・徳川義直の付家老となり1万4千石。

●平岩親吉(ひらいわちかよし/1542~1611年)
徳川義直の後見人を務め、甲府城代、尾張藩執政を歴任。尾張犬山藩12万3千石。

●服部正成(はっとりまさなり/1542~1596年)
いわゆる服部半蔵(鬼半蔵)で、伊賀衆および甲賀衆を指揮。所領は8千石。

●松平康忠(まつだいらやすただ/1546~1618年)
長沢松平家8代当主で徳川家康の従弟にあたる。所領は武蔵深谷藩1万石。

●松平家忠(まつだいらいえただ/1542~1596年)
『家忠日記』を記した。鳥居元忠らと伏見城籠城戦で討死。三河深溝藩1万石。

以上が『徳川十六神将図』に描かれた四天王以外の武将たちです。徳川十六神将は資料によってメンバーに異同があるため12将といいながら14人の武将を紹介しました。しかしいずれも、四天王ともども、家康とともに幾多の戦火をくぐり抜けてきた勇将揃いでした。

特に大久保忠世・鳥居元忠・渡辺守綱・平岩親吉・服部正成などは、家康を描くうえで欠かせない人物たち。なかでも『どうする家康』での鳥居元忠(音尾琢真)は、伏見城籠城戦で妻の千代(古川琴音)とともに奮戦のすえ討死したシーンが話題を呼びました。

『豊臣兄弟!』では、おそらく四天王以外の十六神将が登場することはないと思われます。

しかし、家康を支えたのは、四天王だけではありませんでした。その背後には、今回紹介したような、数多くの三河武士たちがいたのです。

家康が天下人へと駆け上がっていく過程を知るうえで、彼らの存在にもぜひ注目してみてはいかがでしょうか。

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※参考文献
川村真二著 『徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち』 PHP文庫

※トップ画像:NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより

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