【豊臣兄弟!】徳川四天王、猛将・本多忠勝(夏生大湖)が“最期に残した言葉”と家康を救った3つの危機
「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」。戦国最強とされた武田軍から、そう称賛された本多忠勝(夏生大湖)。
徳川四天王の一人として知られる忠勝は、戦国屈指の猛将として語られてきました。
しかし、その生涯を振り返ってみると、彼のすごさは単に「強かった」だけではなく、徳川家康(松下洸平)が危機に陥るたび、その前に立ちはだかり、主君を逃がすために自らが盾となりました。
今回は、本多忠勝とはいったいどのような武将だったのか紐解いていきましょう。
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夏生大湖演じる本多忠勝(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
「家康に過ぎたるもの」と称された本多忠勝徳川家康を支えた四人の武将を「徳川四天王」と称します。
『豊臣兄弟!』圧倒的オーラで登場「徳川四天王」最強4人の武功と史実エピソードを一挙紹介みな武勇に優れた武将たちですが、なかでも本多忠勝は、その代表的な人物と言えるでしょう。
忠勝は1548年(天文17年)、安祥譜代七家の一つである本多忠高の長男として岡崎で生まれ、幼名を鍋之助と言いました。しかし、わずか2歳のときに父・忠高が討死すると、叔父の本多忠真に育てられます。
鍋之助は幼いころから家康に仕え、13歳で元服すると初陣を飾りました。その後、家康の三河平定戦などに従軍し、19歳で家康直属の軍ともいうべき旗本先手役に抜擢されます。
以後も数々の戦場で武功を挙げ、忠勝の名は徳川家中に留まらず、次第に天下へと知られていくことになります。
家康の危機を何度も救った忠勝勇猛な逸話には事欠かない忠勝ですが、特筆すべきは、家康の危機を何度も救っていることでしょう。
ここでは、そのなかでも代表的な三つの出来事を紹介します。
一つ目は、1572年(元亀3年)の「一言坂の戦い」と「三方ヶ原の戦い」です。
将軍・足利義昭の働きかけを受けた武田信玄は、ついに西上作戦を開始しました。
武田勢が浜松城(当時の徳川家の本城)と、支城の掛川城・高天神城を結ぶ要衝にある二俣城を包囲したとの報を受けると、家康は自ら威力偵察に出ます。
しかし、運悪く一言坂で武田本隊と遭遇。その猛攻の前に防戦を強いられた家康を助けるため、忠勝は殿軍を務めました。そして、家康を無事に退却させ、自らも撤退に成功したと伝えられています。
「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」。この言葉は、一言坂での忠勝の奮戦ぶりを見た武田方が、その武勇を称えたものとして知られています。
さらに、その後に起きた「三方ヶ原の戦い」でも、忠勝は徳川軍の一翼を担って奮戦。敗走する家康を逃がすため、ここでも踏みとどまって戦ったと伝えられています。
そして二つ目が、1584年(天正12年)、豊臣秀吉(池松壮亮)との全面対決となった「小牧・長久手の戦い」です。
羽柴秀次、池田恒興らが別動隊として出陣したとの報を受け、家康はその撃破のために小牧山城を出陣しました。このとき忠勝は、小牧山城の留守を任されていました。
家康は長久手で羽柴方の別動隊を撃破し、池田恒興、森長可らを討ち取りますが、秀吉本隊が家康勢を追撃するため動き出したとの報が入ります。
そこで忠勝は、家康本隊が小幡城を経て小牧山城へ退く時間を稼ぐため、わずかな手勢を率いて秀吉の大軍の前に立ちはだかったのです。
これに意表を突かれたのか、羽柴軍は進軍を止め、その間に家康本隊は無事に小牧山城へ戻ることができました。
この豪胆な振る舞いによって、忠勝は秀吉から「東国一の勇士」と賞賛されたと伝えられています。
本能寺の変ののち堺で脱出路を探る家康主従(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
そして三つ目が、三方ヶ原の戦いと同様に、家康最大の危機として語られる、いわゆる「神君伊賀越え」です。
1582年(天正10年)、京都で織田信長・信忠父子が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きます。
このとき家康は、信長の勧めで忠勝ら少数の家臣とともに堺見物に出かけていました。変事の報を受けた家康が京都へ戻ると主張するのに対し、忠勝はそれを諫めたとされます。
その結果、家康一行は伊賀を越えて三河へ帰還することになりました。しかし、この逃避行には、明智方の追っ手や落ち武者狩りなど、大変な危険が待ち構えていました。
案の定、木津川を渡る際に追っ手が迫っていることが判明。忠勝は対岸に渡ると、渡船の船底を槍の石突で突き破り、追手が船を利用するのを防いだと伝えられています。
戦場の猛将から藩政における名君へこのような働きから、忠勝は1590年(天正18年)、家康の関東移封にともない、上総国大多喜10万石を与えられました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでも、忠勝は戦場を駆け、多くの首級を挙げて東軍の勝利に貢献します。
また、毛利家の吉川広家をはじめとする諸大名に、井伊直政と連署した書状を送るなど、東軍方につける工作にも活躍しました。
桑名城蟠龍櫓/歌川広重『東海道五十三次・桑名』(Wikipedia)
この功績などによって、翌1601年(慶長6年)、忠勝は伊勢桑名10万石へ移封されます。
桑名は古くから「十楽の津」と称された商業都市でした。忠勝は桑名に入ると、城郭の整備や城下町の町割りを進め、東海道の宿場町として発展する基礎を築きました。
桑名は東海道と伊勢湾を結ぶ交通の要衝であり、尾張・美濃・近江方面にも通じる重要な地点でした。その桑名に忠勝を置いたことには、家康の明確な意図があったと考えられます。
1610年(慶長15年)、忠勝は桑名で死去しました。享年63。
忠勝の臨終に際して残された言葉として、次の言葉が伝わっています。
「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍といふ」
「武功を立て、敵の首を取ることだけが武士ではない。困難に直面したときに退かず、主君とともに最後まで忠節を守り抜く。これこそが武士なのだ」という意味です。
本多忠勝の人生は、数多の戦場の第一線を駆け巡りながら、家康とともにその天下取りを支えた人生であったと言っても過言ではないでしょう。
しかし、忠勝をして単に戦国最強の猛将の一人というだけでは語り尽くせません。その生涯を振り返ると、「家康に過ぎたるもの」と称された理由が、少し見えてくるのではないでしょうか。
次回は、小牧・長久手の戦いでは忠勝と加藤清正との一騎打ちのエピソードを交えながら、忠勝についてもう少しだけ掘り下げたいと思います。どうぞ、ご期待ください。
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市橋章男著 『家康を支えた三河武士 本田忠勝 井伊直政』正文館書店岡崎
本郷和人著 『戦国史のミカタ』祥伝社新書
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